【新海 誠作品 「秒速5センチメートル」をみて】
新海 誠作品に触れたのはかの「君の名は」がはじめてでした。
泣いてしまったのは結婚式で暴露されてしまったわけですが、私が弱いテーマがつまっていておもわず「ずるい」と思ってしまいました。
新作「天気の子」公開を記念してamazon Prime Videoで過去の作品が見放題になっていたので、
「秒速5センチメートル」をみてみました。
とても引き込まれてみた作品です。こういった引き込まれる感覚を味わうのは心地よく、新海作品はいいなと思います。
情報をほとんどいれずにみたのですが、私は単純でストレートなので、初見は普通の恋愛ものとしてみてしまった気がします。
宮崎監督の「風立ちぬ」もそうだったのですが、その作品の裏にあるテーマにほとんど気づかず、どんかんだなぁといつも感じます。
だからそのあとの考察をみて考えるのもも好きだったりするのです。
色々な方のレビューを見ながら、私なりに感じた感想をかければと思います。
「君の名は」「秒速5センチメートル」で描かれるテーマはひとつには「自分がかけている部分を埋めてくれる完全な存在はあるのか」というのがあると感じています。
「君の名は」ではそういった存在についてポジティブに描かれている作品だと思います。
反対に「秒速5センチメートル」は反対でそういった存在の否定でもあるし、それに魅了された人、こじらせた人の悲劇が描かれています。
きっと男性の多くがかつて幼少期に仲の良かった女性と一緒になっていたら、どうだったのかなと考えたりすることがあると思います。
そういった経験や思いに触れられているような気がしました。
私にも小学校一年生の時にとても仲がよく、母親同士も仲がよく、ずっと過ごしていくのだろうなという人がいました。
転校でしらない二人になったわけなのですが、そんな琴線にふれられた気がします。
「秒速5センチメートル」の主人公もそういったお互い補い合う関係の女性と小学校時代を過ごし、やがて転校して離れてしまうという様が描かれます。
その後、手紙のやりとりをし、ついに会いに行く決断をします。
電車にのって会いにいくのですが、その描写がまた妙で、雪が降り出したことで電車が大幅におくれて、途中止まってしまうなど、楽しみなはずなのにどこか怖さを伴うように描写されています。
とても引き込まれるシーンなのですが、
それはまるで二人が再会してはいけないかのような表現です。
約束を大幅におくれても彼女は待っていてくれて、再開を果たしてしまいます。
そのことによりその晩、完全形が完成することで主人公はその世界にとらわれてしまうのです。
3章仕立ての作品ですが、2章ではそんなどこか影を負った主人公に恋する別の女性の姿が描かれます。
結果的には主人公を完全な関係という呪縛から解き放とうとしていたようです。
それもすれ違いによってかなわず、
3章ではつきあっている別の別の女性とも心通わず、別れる様、仕事もやめてしまうというとらわれた世界から抜け出せない様が描かれています。
完全性の一方の女性はかつての主人公のことは覚えてはいても現実的に生き、知らない男性と結婚することになります。
この作品で語られるのが、よくいわれる「男性は名前をつけて保存、女性は上書き保存」ということ、結果的にはそのようになっています。
完全性という魅力的な果実に手をつけ、こじらせてしまった結果、ずっとひきずってしまっているという男性の悲劇を描いていると思います。
「君の名は」とは本当に対象的な作品ですね。
きっとみる男性と女性とでは感じ方の全然違う作品なんだろうなと感じます。
新海作品はこのテーマを語った「秒速5センチメートル」と別に「言の葉の庭」という作品もあり、さきほどみました。
初見はまたストレートにみて、とても感動してしまいました。
また機会があれば語れればと思います。
#新開誠 #天気の子 #秒速5センチメートル #言の葉の庭 #映画 #感想 #レビュー
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galthie
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コメント
何故なら、ご存知の通り、人は完全な存在ではなく、従って思い描く「完全像」もまた、不完全なものの思考の産物故に、不完全だからです。
結果、不完全な「完全像」を補うために、外界の「完全と思われる存在」の特徴を己の「完全像」に上書きしていくことが延々と続くだけで、それは絵に描いた餅に過ぎず、癒えることない飢餓感が続くだけなのでしょう。
また自分の欠如を他者によって補うという考えは、結局のところ依存であり、たとえ理想の相手に出会ったとしても、相手は重荷に感じてしまうでしょう。もしかすると「自分の依存を全て受け入れてくれる」というのも「完全像」に含まれているのかもしれませんが。
つまりは己の頭の中の像でなく、今自分の目の前にいる存在を丸ごと愛せるか、ということになりますね。それは良い部分も悪い部分も、全てを愛するということですが、しかしそれがどのような境地なのかは想像も付きません。多分、神の愛に近いのでしょうね。
私達は神にはなれませんが、しかし大好きな相手を大切にすることは十分に出来るはずで、とりあえず、相手の好きなお菓子を買って帰ることが、はじめの一歩としてよろしいかと思います。
ああ、長文駄文、失礼しました。
「完全な存在をイメージする、それも不完全」なるほどです。
確かに目の前の人にお菓子を買ってあげたりといったこと、目の前に注力するのが第一歩な気がしますね。
あらためまして、今後ともよろしくお願いします。