[96-04PL]「勝者のエスプリ」著・アーセン・ベンゲルより〜日本が私にもたらしたもの

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 ここ何回かの書き込みで、ダバディ氏の欧米の「いきすぎた個人主義」ということからはじまり、「人質事件」の文でも、個人主義ということばを自然と使った。ベンゲル氏も欧米とは違う日本のよさというものを自書に書いていると説明したが、あらためて私も読んでみた。そこには、我々が気づいていない日本人のよさ、失ってはいけないものが記されていた。今回の一連のこととの関係や、欧米化する日本で取り入れた方がよいもの、そうではないものというものが書かれており、日本人への大切なメッセージに感じた(日本という括りもダバディ氏からすると、古いものなのかもしれないが)。

そこで、この本の一節を引用したいと思った。もし、権利に問題がある場合は連絡を頂たいと思います。ベンゲルの日本向けに書かれた本は、私の知る限り2冊。一冊は今回のNHK出版「勝者のエスプリ」(なぜ日本にくることになったか、そこからグランパス時代のこと、自身の過去のことなどが書かれている)。もう一冊はNHK出版「勝者のヴィジョン」(こちらは、98年アーセナル2冠後出版で、98年ワールドカップのことを中心に書いている)。どちらもサッカーのことだけではなく、自身に満足しないことの大切さという精神論や日本の社会のこと、課題など、多岐にわたっている。興味がある方は是非購入してみてください。

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Quoted from:「勝者のエスプリ」NHK出版
日本が私にもたらしたもの

●忘れられた価値
 
 
 私にとっては今でも日本での生活はあまりにも新鮮であり、これを振り返ったとしても、それが自分にとって本当はどういう意味を持っているのか、まだ正確に位置づけができていないことが多い。
 ただ確かなのは、これまでの私の人生のなかでも体験したことのない毎日だったということだ。
 フランスを発つ前に抱いていた日本に対してのイメージは、すべてがロボット化された、寂しい、特にこれといった魅力もない国、というものだった。
 これは主としてヨーロッパのマスメディアの責任だろう。ヨーロッパでは、日本人は仕事ばかりしてほかに楽しみがない人々のように紹介されている。私のなかにも、幸せでない人たち、というイメージがいつのまにかでき上がっていた。
 当時の私は、そういうなかで生活してみるのも面白いかもしれないな、と思っていた。モナコでの生活に疲労感をおぼえていたこともあり、日々の生活を映画でも見ているように眺められるというのは、たとえそれがつまらない映画だとしても、それはそれで魅力的なことではあった。
 しかし、つまらない映画だと思って見ていたところに、良い場面、気に入った場面があると、俄然その映画が輝き始め、すばらしい作品だと感じるようになることがある。私の場合もこれに近かったのかもしれない。
 そして結局、今では来日前に抱いていたのと正反対のイメージを持つようになった。自分でもオーバーだと思うほど、その良い面ばかりを見るようになった。こんな良いことが待ち受けているとは、思ってもいなかったのだ。
 私は日本という国に対して現在、深い愛情を
抱いている。そこにはヨーロッパでは失われてしまった美徳がまだ残っていた。快適な生活をもたらしてくれるという美徳だ。
 それは日本の習慣に慣れていない人でも、その”価値観”を信じることによって、幸せに生きられる、という種類のものだ。
 その価値観とは、たとえば他人に対する敬意、集団の尊重、礼儀正しさ、自分のやっていることに情熱を傾けることができるという能力、自分のやっていることにベストを尽くしたいという意欲、社会のなかで他人の自由を尊重する意思、などを指す。私にとって日本でこの価値を見いだすことができたのは、何より快いものだった。
 ヨーロッパではこれらの価値はすでに失われており、こうあるべきだと思うことと、実際やっていることとの間には大きなギャップが生じている。生き残るためなら他人の頭でも平気で踏んづけて歩く。自分の意思や自主性、時には攻撃的な性格をさえ強く主張しなければならない。
 ヨーロッパの人たちが憧れるタイプは、日本とは正反対のものだ。そこでは集団を犠牲にして個人の表現と自由が成り立っている。
 同時に日本でこれはすばらしいと感じたのは、日常のほんの些細なことにも日本人が喜びを見いだしていることだった。ちょっとしたことでも他人に喜んでもらえれば、それは自分の深い喜びにつながる。そんな、ヨーロッパでも以前はごく当たり前にあったことを、日本ではたびたび経験することができた。おそらく個人で喜びを感じられるキャパシティーがヨーロッパでは存在しがたくなってきているのだろう。ヨーロッパの若者たちは確実に無感動になっている。
 ある意味では、日本が自分の祖国であるような気がするときもある。それは私が信じている価値観が、日本ではまだ大切なものとして重んじられているからだ。
 だがここでも、そんな美点が永久に存在し続けるという保証はどこにもない。実際にしばらく生活すると、日本が曲がり角に差しかかっているという印象も抱くようになった。日本固有のもの、特にその豊かな精神文化をよそに、西欧、特にアメリカの生活様式が徐々に若い人たちの間に浸透しつつある。西欧文化の侵入はまた、映画や食生活、外国語などにより水面下でより進んでいるようだ。
 街はアルファベットであふれ、若者たちは英語を話せるようになってきている。これは言語による一種の、目に見えない植民地化といえる。こうした傾向は、ものの考え方や経済のあり方にも影響を与えている。
 水面下で進む西欧文化による植民地化の影響は、日本の社会そのものも変容させつつあるという気もした。特に日本経済を分析してみると、経済面でその印象は強い。社会に安定をもたらしていた日本の文化モデルは、経済の変化によってその土台が揺らいできている。日本人のエスプリに根づいた企業への信頼と忠誠心。一生、ひとつの企業に身を捧げるという忠誠心と、これと対になった終身雇用制といったようなシステムは、明らかに脅かされており、その崩壊は避けがたいとさえいえる。
 こうした潮流が日本固有の文化に深刻な影響を与えているのが見てとれた。
 それはあながち否定すべきことではないのかもしれない。第一、サッカーにしても、ヨーロッパで生まれた文化なのだ。
 それに、もちろんすべてが変わってしまうわけではないだろう。日本固有の文化の保持に大きな貢献をしている厳格な教育制度が崩れない限り、その土台は維持されていくことだろう。だが、私は日本に滞在していたときでさえ、いつまでこの土台を維持できるのだろうかと、疑問に思っていた。
 私は日本にいたときには大きなカルチャーショックを感じたが、一方でそれは快いものでもあった。
 一般に、日本人は外から来る人に対しては敬意を払ってくれる。そもそも他人に対する敬意、などといった価値観が尊重されているから、いきなり足を踏んづけたり、財布を盗んだりというようなことは起こり得ない。たとえそういうことがあったとしても、それは故意にではなかろう。
 反対のケースを想像すると恐ろしくなることがある。日本人がヨーロッパへ来たときのショックは、相当なものがあるにちがいない。もし心の準備ができていないまま、人というのは親切なものだと思い込んでヨーロッパへ来たなら、街の至るところで食い物にされてしまうのは目に見えているからだ。
 印象的なのは、『他人の頭でも平気で踏んづけて歩く。自分の意思や自主性、時には攻撃的な性格をさえ強く主張しなければならない』といったくだりだ。ベンゲルはプレミアにいってから、ユナイテッドのファーガソン監督と、言い合いをすることもある。個人的にはベンゲルらしくないと違和感を感じていたが、このように自分の意思というか、時には攻撃性をもってアピールすることも必要なのだろうと思う。
 日本的な価値観というのは、こうして考えると私は好きだ。しかし、同時にそれがもたらす弊害というものもある。それはベンゲルがいうように経済の面で大きい。
 終身雇用という制度は、世界との競争に勝っていく為には、もはや力不足になっている。終身雇用というのは、安定という平和を生むが、自分が本当に適した職業でなくても、惰性でその企業に一生勤めるということにもなりかねない。
 そういった意味では、今の自分にあった能力を自分にあった職場で発揮できるという変化は好ましいものではないか。
 日本は、あまり失敗が許されない国だ。コロンビア大学の教授もこういっていた「日本の若者はかわいそうな面がある。それはセカンドチャンス、サードチャンスが与えられないという点だ。」。例えば大学を中退した人が、アルバイトなどをしたりして、世界中を旅行したりして、また大学はやはり卒業したくなったと、卒業する。その人が30歳を超えていても、アメリカでは「おもしろい人材だ。」という反応を示すようだ。そこには失敗からなにかを学んでいるだろうという前提がある。コロンビア大学の教授も、「いくつかの挫折を味わって、セカンドチャンス、サードチャンスをものにして、私は今の職業にいる。」といっていたのが印象的だった。
 なので、最近での若者の考え方の変化と経済界で起きている変化というものは、私たちの時代にあったものというか、ある意味チャンスだと思う。
 ただ、行き過ぎた能力主義になるべきではないと思う。アメリカでは行き過ぎた能力主義の弊害として、老人が軽んじられるという問題もあるようだ。あくまでも、その日本的なものは残した上で、日本人にあった形の上での変化を起こしていくべきだろう。
 雇用の話になったが、日本のいい面、そこからの弊害というものを考え、日本にあった変化が加えられることが望ましいと感じた。
 「ある意味では、日本が自分の祖国であるような気がするときもある。それは私が信じている価値観が、日本ではまだ大切なものとして重んじられているからだ。」と書いてくれたベンゲル。欧州での評価が定まっていなく、このままでは再び欧州に呼ばれる事がないかもしれないと、新しい挑戦をするために再び欧州にいったベンゲル。これからのさらなる挑戦で、評価を揺るぎなくした時。再び日本で仕事をしてくれるかもしれない。ベンゲルの本を読んで、彼のような生き方をしたいと感じさせてくれた人生の師ベンゲルの日本での挑戦を再びみられると信じている。


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galthie

スポーツ全般がとても好きです。もともと好きだった将棋も1年くらい前から本格的に指しています。別の趣味であるコンピュータを含めてみなさんの役にたつ情報を載せていきたいものです。 好きなチーム:アーセナル 将棋棋力(2016年1月現在) 【将棋ウォーズ】3級 【将棋倶楽部24】13級 最高R310(R300あたりをうろちょろ) 【将棋道場】対局数少なく判定出ていません

コメント

  1. セッキー より:
    素晴らしい!
    読みたいな。
  2. 日本の位置は何処。  ブランク
    ダバディ氏が、理想郷はヨーロッパではなく中国でもなく、日本だと言っているんだけど、まあ特に彼はフランスの現状に悲観的なのだが、それに触発されて ここでベンゲルの勝者のエスプリを引用している方がいた。私は渡航経験はあまりない方だから、よく見えない部分も多い
  3. 通りすがりん より:
    >集団を犠牲にして個人の表現と自由が成り立っている

    フランスのサッカー関係者がよく口にする言葉ですね
    チームとしていかに機能するか、そこにマラドーナがいても集団として機能しなければ良いサッカーは出来ない。
    皆で良いサッカーしてると感じるには、やはり身勝手なプレーはばかりはできない。
    今、話題の人質事件に対する日本社会にも同じことが言えるんじゃないですかね?
    ルモンド紙が日本の対応を非難しまくってるらしいが、フランスのサッカー関係者は事件についてどう思うかなあ?とか考えちゃいますね。
  4. galthie より:
    通りすがりんさん、はじめまして。
    そうですねぇ。私はそこで重要になってくるのはバランスだと思うんです。
    個人が全員みがってなことをしたら、サッカーにならない。
    逆に組織を強調しすぎた個性のないサッカーは機械じみていて、まったくおもしろくない。
    どちらにかたよっているかは好みの問題だと思いますが、両者のバランスが抜群にとれたとき、スペクタクルを感じるのかなぁなんて。
    人質事件もそうですね。どこまで自由が許されるのか。
    はっきりとルールを作るべきなのかとか、難しい問題ですよね。
    ただこうしたことが起きてしまったからといって、
    バッシングがすぎて、急激に自己責任が強調されすぎるのもよくない気がします。
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