何本目かの煙草に僕は火を点ける。肺の奥まで煙を吸い込むが、喉がちりちりと熱くなるだけで味は分からなかった。煙を吐き出すが、電灯を点けていないのでその形は分からない。ただ煙草の先だけが赤くぼんやりと光っている。じっとその先を見つめると、様々な事が浮かんでくる。それらはどれも僕を暗い気分にさせていく。
どうして、こうなったのだろうか。
手に力が篭もり、少しだけ煙草が曲がった。僕はもう一口煙を吸い込み、肺の中で循環させる。そしてもう一度、想う。
何故、こんな事になっているのか。
気が付いたのは最近の事だが、
しかし良く考えてみれば、かなり昔からだったような気がする。今はと言えば、誰も僕の事を気に掛けていない。まるで僕の事を忘れてしまったかのように、僕の事など見向きもしない。
最初は気のせいだろうと考えていた。しかし実際はそんな楽観的なものではなかった。あの日の出来事はまさに決定的だった。
その日、マヌオが玄関で靴を脱いでいると後ろから足音がした。振り向いてみると、そこにはザサヱの姿はなく、カシオが俯いてこちらに歩いてきていた。
「どうしたのカシオ君。元気がないね。」
マヌオがそう声を掛けると、カシオは顔を上げ、すぐにため息をついて部屋に戻ろうとする。不審に思ったマヌオは慌てて廊下に上がり、カシオを追いかけた。
「どうしたんだい。また義父さんに叱られたのかい?」
マヌオ努めて優しい口調と尋ねたが、カシオはそれには応えずに机に向かい、頬杖を突いてしまった。
まただ、とマヌオは思った。どういう訳か皆がマヌオの干渉を避けようとしているようなのだ。事実ザサヱもハカメも、義母のヌネまでもがマヌオを避けていた。唯一彼と話をしてくれるのは息子のタヲオだけだった。いつもは諦めてしまうマヌオだったが、その日は食い下がった。
「なあカシオ君、僕で良かったら相談に乗るよ。」
そう言ってカシオの横に立つ。するとカシオはあからさまに迷惑そうな表情を浮かべ、またため息を吐くと、ようやく思い口を開いた。
「父さんにお小遣いの値上げを頼んだんだ。」
「その様子だと、駄目だったんだ。」
の言葉が気に喰わなかったのか、ちっ、とカシオは舌打ちをする。マヌオは慌てて取り繕う。
「ああ、でももう一度頼んでみたら?僕も一緒に行くよ。」
するとカシオは急に笑いだした。
「マヌオ義兄さんが?父さんに?冗談はよしてよ。」
「そんなに笑う事、ないじゃないか。」
抗議の意味で少し語気を荒くすると、カシオは、す、と表情を堅くした。そしてまた舌打ちをすると、
「マヌオ義兄さんに何が出来るの?」
「だから一緒に頼んであげるよ。」
「それで小遣いが上がるなら、とっくにそうしてるさ。」
カシオは立ち上がり、グローブに手を通す。そして乱暴にバスン、と拳を叩き込み、言った。
「マヌオ義兄さんはいつもそうだよね。出来もしない事をひょいひょいと引き受ける。でもさ、上手く行った事ってあったっけ?」
マヌオは言葉に詰まった。確かに数えるほどしかない。
「最初は僕も頼りにしてたよ。でもさ、こうも頼り甲斐がないとさ、それも迷惑なんだよね。で、話が大きくなってさ、結局父さんに叱られるのは僕だよ。マヌオ義兄さんを巻き込んだ、とか言われてさ。」
カシオは更に大きく、グローブを殴り付けた。マヌオはその音にびくっ、と身体を堅くする。それすらも気に障ったのか、カシオはじろりとマヌオを睨み付け、グローブを放り投げた。そして、
「もういいよ。無理に家に取り入ろうとしなくても良いんだよ。」
と言って、また椅子に座ると元のように頬杖を突いてしまった。
マヌオはそれでもカシオに声を掛けようとした。すると襖が開き、ハカメが入ってくる。と、一瞬目を見開き、そして右頬を軽く痙攣させる。そして苦々しく
「なんだ。マヌオ義兄さん、居たの。」
と吐き捨て、ぴしゃりと襖を閉めた。
僕の居る部屋には入りたくない、という事なのか。
マヌオの気持ちは沈み、がっくりとうなだれた。そこへ追い打ちのようにカシオが命じた。
「もういいだろ。出てってよ。」
マヌオはそれに従うしかなかった。
手元まで灰になった煙草を揉み消すと、僕はすぐに新しい煙草に火を点けた。今度は先刻よりも長く吸い込む。喉と肺が悲鳴を上げる。僕は軽く噎せ、呼吸を整えた。
と、そこで一人の男の顔が浮かび上がる。家長、並平だった。
「カシオ君ももう五年生ですよ。千円ほど値上げしても良いんじゃないですか?」
並平は目を瞑ったまま、マヌオの話を聞いている。しかし考え込んでいる様子はない。聞き流しているだけのようだった。それでもマヌオは一縷の望みを託し、必死に説得を続ける。横にはふてくされた様子のカシオが座っている。時折ぶつぶつとした独り言と舌打ちが聞こえる。覚めた空間だった。
何十回と主張を繰り返した所で、ようやく並平が顔を上げた。マヌオは息を殺して言葉を待つ。しかしその内容は残酷だった。
「カシオ。どれだけマヌオ君に迷惑を掛ければ気が済むんだ?」
カシオは慌てて顔を上げ、口元まで抗議の言葉を昇らせるが、しかし並平は一瞥しただけでそれを飲み込ませる。
「ただでさえマヌオ君は疲れているんだ。そこへお前は無理を言う。どれだけマヌオ君が迷惑しているのか、お前は分からないのか?」
するとカシオはそっぽを向き、小さく抗議する。
「僕が頼んだ訳じゃないんだ。」
「この馬鹿者がっ!」
並平の平手が飛び、直後カシオが真横に吹っ飛んだ。そのまま襖に突っ込み、部屋全体に衝撃が走る。マヌオは慌ててカシオに駆け寄る。
「義父さん。何も殴る事は…!」
しかし義父はマヌオの言葉など無視した。
「そんな事も分からずに、一人前に金だけは欲しがる。笑わせるんじゃない。お前はしばらくの間、朝飯は抜きだ。」
そう引導を渡すと、そのまま居間へと去って行った。
マヌオは呆気に取られていたが、我に返るとカシオを抱き起こした。
「大丈夫かい、カシオ君!?」
カシオは苦痛に顔を歪めていたが、すぐに身体を起こすと乱暴にマヌオの手を振り払った。
「だから言ったじゃないか!結局父さんには頭が上がらないだろ!もう余計な事はしないでくれよ!」
そう言ってカシオは部屋を飛び出して行った。
確かに頭が上がらなかった。しかしそれは並平のやり方があまりにも一方的だったからだった。僕の意見など始めから切り捨ててしまっている。この家は完全に並平に支配されているのだ。そして多分これからもそれは続くだろう。それ自体は別に構わないのだ。
しかし、それなら僕はどうなるのだ?
封建的な並平に押し込められ、僕は何も出来ない。それどころか確実に信用を失っていく。このままでは僕は軽蔑され、信頼されず、やがて孤立するだろう。
いや、現に今、そうなっている。
そうだ、並平が居る限り、僕は孤立していく。僕が消えていく。そして最後には並平に、異園家に飲み込まれていくのだ。
黒く、熱い感情が、僕の腸を満たしていく。みるみるうちにその力は指に伝わり、煙草をいびつな形へと変形させていく。
「並平だ…。」
変形した煙草の先が僕の指先に近づく。
「並平だ…!」
やがて僕の指先と火種が触れ合い、じゅう、と呻く。不思議と熱さは感じない。煙草は更に小さく握り締められ、火種と共に、僕の掌の中へ収められていく。
「並平が僕を潰しているんだッ…!」
拳の中から煙が立ち昇り、髪が焦げるような嫌な臭いが辺りを満たす。手を開くと、完全に灰になった煙草と、焼け焦げた皮膚がぼろぼろとこぼれ落ちた。
それを見ているうちに、何故か僕の口元には笑みが浮かんでいた。
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過去のホームページ時代より寄稿させていただいておりましたが、とある作品を完結させぬままに十数年すっかり忘れ、この度親方の号令により、再び参加と相成りました、todomeと申します。 主に小話を寄稿させておりますが、マンガ、ゲームにつきましても、今後ご紹介させていただこうかと思っております。どうぞお付き合いください。
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