空白の理由 1

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1‐A

 僕が言葉を接ごうと口を開いたその時、目の前に奇妙な空白が現れた。
「………。」
 僕と美穂は自然と顔を見合わせる。美穂は目を丸くしていた。きっと僕も相当間抜けな顔をしていたに違いない。しかし僕は互いの表情よりも、この目の前の妙な空白に気を取られていた。妙に白けた、止まった空気がそこにはあった。
「ん…?」
 訳が分からず、僕は呟いた。それは美穂も同じだったらしく、無言で首を振り、手元のカップを引き寄せた。そして紅茶を一口飲むと、ほぅ、と一息吐いて、
「何、これ…。」と呟いた。
 意味もなく、辺りを見回してみる。そこはいつもの喫茶店で、カウンター奥にはマスターが新聞を読んでいる。客は僕達一組だけで、店内には静かなジャズが流れている。窓の外にはビル街が望め、沈みつつある夕日が赤く染めているのが見えた。
 何も変わっていない。僕達が止まってしまっただけだ。
「話をしていた、よね?」
 少しの沈黙の後、美穂が確認を求めてきた。そう、確かに僕達は話をしていた。実際、空白の直前で、僕は美穂に何かを伝えようとした。ただ、
「…何の話だったっけ…?」
 それが分からなかった。それまではするすると話が流れていたのに、一瞬の後にその内容は頭からきれいに消え去っていた。
 僕の問いかけを受け、すぐさま美穂は俯き、額に手を当てて考え始めた。それは考え事をする時の癖だが、役に立った試しはない。今回も空振りに終わるだろう。果たして美穂は、
「何だろう。分からない。」と、顔を上げて、照れくさそうに微笑んだ。そして続けて、
「こういうのを『ど忘れ』って言うのかな」と言った。僕は笑いながら、「こういうのは『ど忘れ』とは言わないよ。」と応えた。
 相変わらず美穂の日本語の知識は間違いだらけだ。発音は知っているが、意味を深くは知らないのである。しかしその事について本人は全く気にしていない。だからいつまで経っても直らない。しかし否定したとはいえ、美穂の言う事もあながち間違いではない。確かに僕達は、たった今話していた内容を忘れてしまったのだから、一種の『ど忘れ』とも言える。
「ああ、でも何だったかなぁ。さっきまで話していたのよ。」
 美穂は悔しそうにテーブルをコツコツと突き、また俯いた。
 忘れるくらいだから、それは大した事ではない、というのが僕の持論だ。印象が薄いのだから、重要な事ではないに決まっている。実際に思い出してみればやはりその通りで、実につまらない事である場合がほとんどである。僕はこれまでに嫌という程学習してきた。そう考えて、次の話題に移ろうと思った。
 しかし、である。今回は状況が違っていた。何かが僕の心に引っかかっていた。このまま流してはいけないような、大切なものであったように思えた。
「何だろう…。すごく気になる…。」
 どうやら美穂もそう感じているようだった。
 果たしてそれが何だったのか、僕はそこに、空白の周辺に意識を集中させた。しかしいつまで経っても、何も浮かんでこなかった。
 顔を上げて見ると、美穂は頻りに首を傾けている。僕と同じように思い出そうとしているのだろうが、それにしてはどうも様子がおかしい。どこか、そう何かが腑に落ちないといった表情だった。

 少しの沈黙の後、美穂が口を開いた。
「何かを思い出した?」
 期待が込められた口調であったが、当然僕にはその材料がない。
「いや、全然。何にも浮かんでこない。」
 すると美穂はきょとんとした表情を浮かべ、尋ねた。
「どういうふうに思い出してるの?」
「そうだな、その部分の前後を思い出すんだ。で、文脈から考えてみる。」と、今まで行っていた方法を説明した。美穂はうんうんと頷き、すっ、と指を立てた。
「それも良い方法だけど、だったらもっと大きな流れで考えた方が良くない?」
「…どういう事?」
「だからね、一番最初から思い出してみるの。」
「一番最初って?」
 主導権を取れた事が余程嬉しかったのか、美穂は不敵に微笑み、ゆっくりと瞬きをした。
「今日駅前で待ち合わせをした所から始めて、話が途切れる直前まで順々に思い出すの。」
 確かに大きな文脈の流れではある。しかしそこまで遡る必要はあるだろうか。手間が掛かりすぎる気がする。遡るなら、この喫茶店に入った所からで十分ではないだろうか。その事を美穂に告げると、今度はゆっくりと首を振った。
「それじゃ駄目よ。だって私達は何を話していたのかをすっかり忘れてしまってるのよ?もしかしたら今日あった出来事についての話だったかもしれないよ?少なくとも、この喫茶店の何かから話が始まったとは考えられないけど。」
 するとカウンターにいるマスターがちらりとこちらを見た。それに気付いて美穂は、
「あ、この店が殺風景って訳じゃないですから。」と愛想笑いを浮かべて弁解した。
「でもさ、そんな事言ったら、昨日の出来事の事かもしれないじゃないか。もしかするともっと前とか、僕達が付き合う前かもしれないじゃないか。」
「…それは、そうかもしれないけど…。」
 話題の起点は現在の周辺とは限らない。幼少期のような遠い過去かもしれないし、人類が火星に移住している遥か未来かもしれない。だが、
「でも、そんな事言ってたらキリがないでしょ。取りあえず、今日の事から。ね?」
 妥当である。目の前の事から片付ける方略が、大抵の場合、最良の手なのである。
「で、そっちは何か思い出したの?」
「え…。」
「今言った方法で思い出していたんだろ?何か思い出した?」
「…それが、まだ映画館から出てないの。」
「昼頃の話だろ?まだそんな所なの?」
「だって…、映画が良く分からなかったんだもん。」
 美穂は小さくなって髪をいじった。いやな予感がしつつも僕が追求すると、美穂はぽそぽそと話し始めた。
「十一時に駅前で会ったでしょ。その後お昼食べたでしょ。その後映画見たじゃない。」
「『旅の果て』だろ?」
「そう。あの映画、話がややこしかったじゃない。オチが良く分からなかったの。それを考えてたら、そこで止まっちゃって…。」
「まだ映画館から出てない、という事?」
 美穂はこくりと頷いた。正直、呆れた。映画の内容が分からない事ではなく、斬新とも言える回想法を提案している本人が、未だ問題の部分に到達していない事に、である。
「あれさ、どういう事?主人公と姉とその恋人がどういう事な訳?」
 大いに呆れながらも簡単な解説を入れてやると、美穂は少し考えた後、納得したのか表情が明るくなった。
「あぁ、そういう事か。でも、もう一度見ないと分からないかもね。」
「でもな、今はそんな事はどうでも良いんだよ。」
「でも気になるじゃない。そういう点では問題は同じよ。」
 こういう屁理屈だけは達者だった。僕は早々に反論を諦め、美穂に先を促した。
「で、その後モールに行ったのよね。」
 美穂は視線を宙に舞わせながら言う。
「大通り沿いをぶらぶらと、ね。」
 僕はその視線を追いながら応える。当然、そこには何もないのだが。
「洋服見て、靴を見て、小物を漁って…。」
「それを三回繰り返して何も買わなかった。」
 皮肉を込めて合いの手を入れると、美穂は少しむくれた様子だった。
「気に入ったのがなかったの。で、ここに来たのよね。」
 そう言うと、美穂は今一度、店の中を見回した。いつの間にかBGMはクラシックに変わっていた。外の景色も夕焼けから、眩い電飾の光が主役に変わっていた。
「で、話を始めたのよ。ええと、何の話からだったかな…。」
 その時の僕は、美穂の気まぐれ満載のお買い物に引きずり回されてへとへとだった。だから、
「買う物を決めてから買い物してくれって話だよ。」
 それを聞いて美穂は一層不満に満ちた顔に変わり、
「偶然の出会いを楽しむ事も大切なのよ。」と反論した。
 それを聞いて、僕の記憶は急激に蘇り始めた。
「そうだ。それで美穂が『偶然の不思議さ』について話を始めたんだ。」
 美穂も同じだったらしく、すぐに僕の言葉を受けた。
「先週のドラマの内容と今週の講義の一致、擬音の世界的な共通性の話。」
「そこから酒の話に飛んで、」
「ドラッグの話に移って、」
「幸せは人それぞれという話になった、と。」
「で、…………………。」
「………………………。」
「………………………?」
 不思議な感覚が襲ってきた。水が流れるように記憶を再生する事が出来ていたのに、ここにきてまた、止まってしまった。いや、何かに無理矢理止められたという印象だった。
「…ここで話、終わってなかったよね…?」
 僕は黙って頷いた。話はそこで終わらなかった。『幸せは人それぞれ』という話題から、また何かに移っていったのだ。しかしその先がすっぽりと抜け落ちている。いや、確かに存在しているのだが、何かが再生を拒否している。まるでこの先には行くな、と言わんばかりに。
「ここで、急に話を内容を忘れたんだな…。」
 つまり、これがこの奇妙な空白の正体だったのだ。それにしても、その他の事は細部まで覚えているのに、どうしてこの空白の部分だけ思い出す事が出来ないのだろうか。そこへ美穂が言った。
「おかしいよね、これ。」
「…思い出せない事が?」
「それもあるけど、二人同時に思い出せなくなるって、おかしくない?」
 確かにその通りだ。会話の当事者二人が思い出せないとは、どう考えてもおかしい。聞き流していたのならあり得るが、そんな感じではなかったし、思い出せなくなったとしても、普通はどちらか一方だけのはずだ。
「何だろうこれ…。気になるなぁ!」
 どうやら美穂はこの奇妙な状況をどうしても打開したいようだった。もちろん僕もこんな半端なままに終わる気はなかった。予定ではこの後、一杯やりに行くはずだったが、酒が入ったらおしまいだ。
「よし、じゃあここからは一つ一つ丁寧に思い出していこう。」
「…どうやって?」
「入り口は分かってる。『幸せ』だよ。」
 美穂は首を傾げる。
「…どういう事?」
「話題が移るって、どういうふうに起こると思う?」
「え、先にあった話がきっかけで、別の話題に移るって事でしょ?」
「という事は、先の話題の連想で次の話題に移るという事だよね。これまでの話の流れで考えてみると、『擬音の世界的な共通性』でしゃっくりの発音が似ているという話題が出た。そこで僕は酔っ払いを連想して、酒の話題に移った。」
 そこで美穂は深く頷いた。
「なるほどね。で、酒、つまりアルコールはドラッグの一種である…、となるのか。」
「だから『幸せ』から連想される事を思い浮かべていけば、忘れてしまった話の糸口が出てくるんじゃないかな。」
「『幸せ』か…。」
 そう呟くと、美穂は目を瞑ってまた額に手を当てた。連想を始めたらしい。僕もそれに続いて『幸せ』からの連想を始める。自然、顔が俯きがちになる。
 家族、仲間、信頼、金、地位、名誉。様々な概念が浮かんできた。それらは僕の心を暖めていく。しかしそれと同時に重苦しい気分もまた、浮かんできた。『幸せ』が、何故か、苦しい。不思議だった。
 僕は訳の分からない感情を抱えたまま、『幸せ』の連想を続け、ふと思った。だから『幸せ』に関する話題を忘れてしまったのではないだろうか。この奇怪な感情のうねりを避けるために、再生を拒んでいるのではないだろうか。

 どのくらい経っただろうか。僕は妙な音を耳にして我に返った。顔を上げると、美穂の様子がおかしい。肩が小刻みに震えている。そしてスン、と音がした。
「美穂…?」
 思わず声を掛けると、美穂はゆっくりと顔を上げた。目がかすかに潤んでいる。泣いていたのだ。先程までの快活な態度から一変し、美穂は酷く動揺しているようだった。
「どうした…?どうして泣いてるんだ?」
 僕は慌てて美穂を問い質した。美穂は目元を拭うと、小さく呟いた。
「色々、思い浮かべたの。そしたら、だんだん…。」
 その後は言葉にならず、またスンと音がした。そして再び美穂の瞳から涙が零れた。
「何だか、切ない…。」
 その言葉を聞いて、僕の中の何かが一層大きく動き出した。


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todome

過去のホームページ時代より寄稿させていただいておりましたが、とある作品を完結させぬままに十数年すっかり忘れ、この度親方の号令により、再び参加と相成りました、todomeと申します。 主に小話を寄稿させておりますが、マンガ、ゲームにつきましても、今後ご紹介させていただこうかと思っております。どうぞお付き合いください。

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