僕の名はアソパソマソ。謎の病原菌を町中に撒き散らし、そのまま姿を消した宿敵のHIVマンを僕は追いかけた。そしてついに奴を火口に突き落とした時には、パン工場を出てから既に三年が経っていた。
雪山を飛び越えるとパン工場が見えてきた。ヅャムおじさんとベタ子さん、それにチーヌは元気でいるだろうか。僕は懐かしさで一杯だった。いつものように大きく旋回してから、僕はふわりと着陸した。
「ただいま、ヅャムおじさん!」
元気良く玄関のドアを開けたが、まず最初に僕を迎えたのは黴臭い、酸えた様な臭いだった。パン工場だというのに中は全く火の気がなく、
薄暗くて埃っぽい。僕は一歩踏み出し、もう一度ヅャムおじさんの名を呼んだ。と、部屋の隅で何かが動いた。
「おぉ…?アソパソマソじゃないか。」
それはすっかり痩せ衰えたヅャムおじさんだった。顔は青白く、しかし赤黒く、足元もふらふらとおぼつかない。手にはバーボンらしいボトルを握っていて、下品にへらへらと笑いを浮かべている。相当酔っているらしい。
僕は慌ててヅャムおじさんを支えた。
「ヅャムおじさん、これはどういう事なの?」
パン工場の荒れ様は言葉に出来ない程だった。窓には茶色く汚れたカーテンが閉められ、陽光を汚している。元は空色だったのにすっかり変色してしまっていた。テーブルも埃だらけで、酒瓶が何本かと油の浮いた皿が散乱している。その周りには足の折れた(多分、腐っている)椅子が幾つも投げ出されており、床にはやはり酒瓶が転がっていて、しかも得体の知れない液体までもが広がっている。
「ねえ、どういう事なんですか?」
僕がもう一度尋ねると、虚ろだったヅャムおじさんの目が鈍く光った。それに連れて顔はみるみる強ばっていく。
「どういう事?お前、よくもそんな事を…!」
そういってヅャムおじさんは僕の手を振り払い、たたらを踏んで床に崩れ落ちた。僕は慌てて抱き起こそうとしたが、ヅャムおじさんはその手すら振り払う。そして掠れた声で叫んだ。
「こんな山奥なのにどうしてパンが売れていたのか、お前は考えた事がないのか?」
そんな事は少しも考えた事がなかった。答に窮していると、ヅャムおじさんは吐き捨てるように言葉を継いだ。
「これまではお前の人気で、何とかパンを売ってきた。でもな、お前がいなくなれば、ここはただのパン工場なんだよ。おかげで、すっかりパンは売れなくなってしまった…。」
と、僕の足に何かが触れた。見てみると、それはチーヌだった。チーヌは身体付きこそ昔のままだったが、その目は何だか常軌を逸している。そう、まるで腹を空かせた狼。
突然チーヌが僕の足に咬み付いた。激しい激痛のあまり、僕は慌ててチーヌを蹴り飛ばした。昔ならキャン、と鳴いてひっくり返るのだが、チーヌは微妙なバランスを保って体勢を立て直し、再び僕に襲いかかる。その狙いは明らかに、僕の喉笛だった。
「ア、アソペンチ!」
反射的に、僕は必殺のパンチを放った。パンチは口を開けたチーヌの丁度眉間に命中した。そしてもんどり打って、壁に叩き付けられる。ベシャ、と、嫌な音がした。ずるずるとチーヌは壁からずり落ちる。壁には真っ赤な鮮血がこびり付いていた。
「チーヌ…?チーヌ!」
慌てて駆け寄ったが、チーヌは既にこと切れて、ごぼりと血を吐いた。
「狂犬病だよ。」
振り向くと、ヅャムおじさんが僕を睨んでいた。
「金がなくなって、予防注射が打てなくなった。わしはもうこんなだから襲われる事はなかったよ。不味いと分かっているんだろう。」
そう言ってヅャムおじさんは忌々しそうにチーヌを蹴り上げた。それはまるでゴム人形の様に浮き上がり、また嫌な音を立てて床に叩き付けられた。
僕は何か言おうとした。しかしショックで声が出ない。するとヅャムおじさんはテーブルの裏を指さした。
「でも、奴らは旨いと知っていたらしい。」
さっ、と頭の中が真っ白になった。僕は慌ててテーブルの裏に駆け寄った。そこには、
「力レーパンマン?」
力レーパンマンが、そこにいた。しかしいつもの笑顔を見せる事はなく、白目を剥いている。その顔の半分は何かに咬みちぎられた様になくなって、そこからどろりと自慢のカレーが流れ出ている。しかしそれは既に緑色に変色していて、死んでからかなりの時間が経っているのが分かった。と、その奥に、もう一つの死体を見つけた。嫌な予感がし、それは当たってしまった。
「蝕パンマン…。」
蝕パンマンの方は更に酷く、首から上がなかった。その上片腕がなく、腹部も抉られて、ぽっかりと穴が開いていた。
「チーヌがやったのか…?」
気が付くと、ヅャムおじさんが僕のすぐ後ろに立っていた。
「確かにやったのは、チーヌだ。しかし、何故そうなったか、お前分かるのか?」
僕はゆっくりとヅャムおじさんを見上げた。
恐ろしい程に、表情がなかった。疲れきった顔というか、とにかく何の表情も読み取れない。しかしそれは間違いだった。
「全部、お前が悪いんだよ。」
「僕が…?」
と、ヅャムおじさんの顔が急変した。奥歯を噛みしめ、目をカッ、と見開き、まさに僕を凝視している。憎悪だった。表情が読み取れなかったのではない。僕がヅャムおじさんの憎悪の表情を知らなかっただけだったのだ。僕は恐ろしくなって飛び退いた。
「HIVマンだか何だか知らないけどな、お前がいなくなったおかげで、わしらは破滅した。お前がつまらない正義感に駆られなければ、わしらはずっと幸せだった。」
ヅャムおじさんは恐ろしい表情のまま、僕の方に歩を進める。
「そんな…。僕はただ、HIVマンを…。」
僕は一歩、また一歩と後ろに下がった。と、ぐちゅっ、と音がして、足の裏に奇妙な軟らかさを感じた。
「お前の正義感とやらは、お前の友人をも破滅させた。今、お前が踏んでいる、優しい友人達を、だ。」
はっ、と見おろしてみると、僕の不用心な一歩で、力レーパンマンの顔は完全に崩壊していた。
「うわああっ!」
僕はつんのめりながら、玄関の方に走った。
胸一杯にどす黒い感情が流れ込んでくる。こんな空気から早く逃れたかった。
しかし、僕は気付いた。
「…ベタ子さんは?」
玄関の前で立ち止まり、僕はもう一度部屋の中を見回した。あるのは怒りに震えるヅャムおじさんと、潰れてしまったチーヌ。それにチーヌに喰われた、力レーパンマンと、蝕パンマンだけだ。ベタ子さんの姿がない。
「おじさん。ベタ子さんはどこ?」
と、ヅャムおじさんの顔がみるみる萎びていった。苦悶の表情というやつだ。
「…ベタ子は、最後までお前を信じていた。」
ヅャムおじさんはぐびり、とバーボンを煽る。そして一つ、げっぷをした。
「お前は必ず帰ってくる。そしてまた、昔みたいな楽しい生活が戻ってくる、とな。」
「ベタ子さんはどこなんだ!?」
僕は堪らなくなって叫んだ。ヅャムおじさんは張り付く様な目で僕を見る。そして、一言。
「売った。」
「売っ……た…?」
一瞬、意味が分からなくなった。
「ベタ子は、最後まで信じていたよ。きっとお前が迎えに来てくれるって。それまで頑張ってお金を稼いでくるって、そう言った。」
ヅャムおじさんは顔をくしゃくしゃにして、泣いていた。しかし、僕の中では怒りが膨らんでいた。
「今、ベタ子さんはどこにいる…?」
しかしヅャムおじさんはなかなか答えない。それが僕を不安にし、怒りを増幅させた。頭の中がちりちりと熱くなる。
「どこにいるんだ!」
僕はヅャムおじさんの胸倉を掴み、乱暴に揺すった。そしておじさんはやっと答えた。
「ラグナロク…。」
そこはこの国最低のスラム街で、赤線地帯。
「売春宿か……!」
僕の怒りは頂点に達し、ヅャムおじさんの首根っこを掴んで吊るし上げた。
「あんた、あんた自分の孫を、そんな所に売り飛ばしたのか!?それでもあんた人間かよ!」
するとヅャムおじさんは、苦しみながらも僕を睨み付け、ぺっ、と唾を吐きかけた。
「お前に、何が分かるんだ……!」
激しい嫌悪感に駆られ、僕はヅャムおじさんを投げ捨てた。おじさんは壁にぶち当たり、うぐっ、と声をあげる。そしてぜえぜえと荒い息をして、絞り出すように言った。
「何もかも悪いのはお前じゃないか。お前が出て行かなければ、皆、幸せでいられたのに…!」
「そういうあんたは何をした!?」
僕は部屋を見渡し、叫んだ。
「金を稼いで、ベタ子さんを迎えに行こうとは思わなかったのか?チーヌの薬代を稼ごうと思わなかったのか?蝕パンマンや力レーパンマンを助けなかったのか?」
するとヅャムおじさんは、ぷい、と顔を背けた。僕はおじさんに駆け寄り、髪を掴んで無理矢理僕の方に向けた。
「あんたがやってたのは、ベタ子さんを売った金で、酒を飲んでただけじゃないのか!?」
しかしヅャムおじさんは腐った魚の目で、僕を睨み付けるだけだった。そして、一言、
「お前は、悪魔だ。」と僕を呪った。
「この野郎…!」
これほどの強い怒りは始めてだった。頭の中の餡が沸騰しそうだった。そしてヅャムおじさんは僕の怒りに拍車をかけた。
「突然やってきたお前をここまで育てたのに、お前は結局、わしらの幸せをぶち壊していった。お前は、悪魔だ。」
この時、僕にはヅャムおじさんがHIVマン以上の悪魔に見えた。右手は爪が食い込むほど握り締められ、そして僕の頭は爆発した。
「アソペンチ!」
気が付くと、僕の足元にヅャムおじさんがうつ伏せに倒れていた。よく見ると顔から血が流れ出ているのが見えた。
と、僕は右手に何か握り込んでいる事に気付いた。何か軟らかい、生暖かい物。開いてみると、白く、ぬるぬるした物だった。いびつに潰れ、気味の悪い液体が流れている。摘み上げてみると、黒い部分が見えた。
それは眼球だった。思わずぎょっ、としたが、よく見れば角膜の部分がうっすらと白く濁り、丁度、老人のそれの様な…。
僕は慌てて倒れているヅャムおじさんに駆け寄った。恐る恐る身体を返してみると、身体は一目見ただけで、骨という骨がへし折られているのが分かった。そして出血していた顔には、目がなかった。血は、その真っ黒に穴の開いた眼孔から流れていた。
「ヅャムおじさん…?」
返事が、ない。
「ヅャムおじさん…?」
身体を揺するが、返事は、ない。
「ヅャムおじさん!」
何度声を掛けても、おじさんはぴくりとも動かない。分かっている。死んでいた。
僕はヅャムおじさんを殺してしまった。
急に握り締めていた眼球の感触が浮かび上がり、僕はそれを本能的に投げ捨てた。
僕はよろよろと退き、そして、
何か叫んだ、と思う。
僕は喘ぎながら、床に突っ伏した。涙が後から後から流れ出る。
と、そこへ、
「見たぜ、アソパソマソ。」と声がした。
玄関の方に顔を向けると、そこには人影が立っている。逆光でよく見えないが、しかし特徴的な角が二本、頭に生えている。
人影はゆっくりと僕に近づき、僕の視点にまで腰を降ろした。その顔は、
「HIVマン……!」
それは倒した筈のHIVマンだった。
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過去のホームページ時代より寄稿させていただいておりましたが、とある作品を完結させぬままに十数年すっかり忘れ、この度親方の号令により、再び参加と相成りました、todomeと申します。 主に小話を寄稿させておりますが、マンガ、ゲームにつきましても、今後ご紹介させていただこうかと思っております。どうぞお付き合いください。
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