彼の顛末 第三回

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 夕暮れが迫っていた。

 ここから見える夕日はいつもの様に美しいのに、赤く染められたこの街は、決して美しくなる事はない。何故ならこの美しい夕日を、この街はそのけばけばしいネオンと、耳を覆うばかりの喧噪で塗りつぶしてしまうからだ。この国最大最悪のスラム、そして煙草の煙と安い酒と、そして下品な白粉の香りがする街。

 それがラグナロクだった。

 この街に来たのは勿論初めてだったが、一歩足を踏み入れた途端、僕は思わず顔をしかめてしまった。予想以上の荒れようで、あちこちに汚物が散乱している。僕はいささか吐き気を覚えた。それは街の住人達もそうだったようで、ベタ子さんの居所を聞き出そうと声を掛けても、

すぐに警戒心丸出しの顔をして、ぷい、とどこかへ消えてしまう。

 では警察に聞けば、と思ったが、そもそもこの街には警察の権力など及んでいる訳がない。それに僕自身が警察に追われる身なのだ。だが皮肉にも、逆にそれが僕にとって都合が良くなる事になった。

 恐らく、午後のニュースで僕の事が報道されたのだろう。掌を返したように街の住人達が変わった。同類だと思ったらしい。なので、すぐに聞きもしない事まで話してくれた。歓楽街が並ぶ表通り、そして裏通りにはその住人達が住むアパートが乱立しているという。

 そして僕はベタ子さんの住む、崩れ掛けたアパートの前に立っていた。しかしそれはアパートと言うには程遠い代物で、窓ガラスはどれも綺麗に割られ、壁には罅が走っていない部分がない。入口らしい所には、辛うじてドアらしいものがぶら下がっている。はっきり言って、人間の住む所ではない。僕は愕然としてしまった。

 僕は恐る恐る中に入り、取りあえず郵便受けを探した。が、よく考えればそんな物はある訳がない。仕方なく、部屋を一つ一つまわる事にした。

 三階建ての建物を全てまわるのは骨が折れたが、幸いな事に殆どの部屋にはドアがなく、ちょいと覗くだけで確認出来た。逆に言えば、人の居る部屋にしかドアがないのだ。

 結局、僕は最上階の奥の部屋までやって来た。残ったのはここだけだ。ボロボロではあるがちゃんとドアもあり、僕はそっとノックした。

 「誰?」

 中から聞こえてきたその声は、掠れてはいるが間違いなくベタ子さんのものであった。

「ベタ子さん!僕です、アソパソマソです!」

 カタリ、と何かが倒れる音がした。そして恐ろしい程の沈黙が流れた。

「ベタ子さん!ベタ子さん!」

 不安になった僕は何回も何回もドアを叩いた。

 と、ギギッ、ときしんだ音を立てて、ドアがほんの少しだけ開き、隙間から女性の顔が見えた。僕は息を飲んだ。

 ベタ子さんは、すっかり年頃の女性の顔になっていた。三年前に見た時は、まだまだ幼さが残る少女の顔であったが、今目の前にある顔は、すっと尖った顎といい、真っ直ぐに筋の通った鼻といい、そして吸い込まれそうに美しく円らな瞳といい、魅力的な女性に成長していた。

 しかし僕が驚いたのはそんな事ではない。確かにベタ子さんは美しく成長したが、その目には光がなく、どんよりと曇っている。それに肌もよく見れば艶がなく、どこか疲れきった表情をしていたのだ。

 ベタ子さんは僕をじっと見つめていた。まるで客を値踏みするような、まさに娼婦の目だった。

「何しに来たの。」

 感情の含まれていない、冷たい声だった。僕はすっかり悲しくなりながらも、

「迎えに来ました。」と答えた。

 するとベタ子さんの瞳はゆっくりと大きくなった。しかしそれは喜びではなく、意外な展開、といった感じであった。

「…上がって。」

 ベタ子さんはやっとドアを開き、僕を迎えてくれた。

 部屋の中は乱雑に散らかっていた。

 部屋の隅にはボロボロのベット。シーツもくすんでいて、あまり取り替えていないらしい。反対側の隅には小さな化粧台があり、やはり乱雑に粗悪な化粧品が並べられている。部屋の中央には腰程の高さの丸テーブルがあり、黒や紫の下着がうず高く積み上げられている。その脇には汚らしいスツールがあり、玄関の脇には小さな冷蔵庫、その上には古めかしいラジオが置かれていて、驚いた事に家具はそれで全部だった。

 ベタ子さんはベットに腰掛け、僕にはスツールを勧めた。二人同時に腰掛け、ベタ子さんは気だるそうに髪を掻き上げる。そして思い付いたように窓際に立ち、そこにある灰皿と煙草を取った。そして火を点け、口を開いた。

「それで、何しに来たの。」

「だからベタ子さんを迎えに来たんです。」

 と、ベタ子さんは煙と共に鼻で笑った。

「何がおかしいんです?」

「だって、」

 と、また煙草を一吸い。そしてすっ、と表情を変えた。

「だって、どこに帰るっていうの?」

「それは、パン工場に決まってるでしょう?」

「私が知らないとでも思ってた訳?」

 ベタ子さんは忌々しそうに煙草を揉み消した。そして刺すような視線で僕を睨み付けた。

「あんた、ヅャムおじさんを殺したんだってね?」

 ぐっ、と僕は息が詰まった。それに構わず、ベタ子さんは冷たい口調のまま続ける。

「パン工場は今頃大騒ぎなんでしょ?そこに私を連れていってどうするつもり?」

「いや、違うんだ。僕は…。」

「あんたが無罪だって、私に証言でもさせるの?」

「待ってくれ。ベタ子さん、僕は…。」

「聞きたくないわ!」

 ベタ子さんは叫んで、足を踏み鳴らした。

「何よ、今頃何よ!あんたは私から何もかも奪うつもりなの!?冗談じゃないわよ!」

「違うんだ。あれはヅャムおじさんが…。」

「信じてたのに…。」

 そしてベタ子さんは泣き崩れた。

「最初は、私も少しの辛抱だって思ってた。だからどんな男に抱かれても我慢できた。でもそれも半年だけよ。待っても待っても誰も来ない。あんたが迎えに来るってずっと信じてた。でも来なかった。そうしたら、何?あんたがおじさんを殺したって言うじゃない!私は帰る場所も失ったのよ!?今更…、今更何よ!」

「だから、だから殺したんだ!」

 僕は我慢できなくなって叫んだ。しかしベタ子さんは冷たい目で僕を睨み付けた。

「それが理由になると思ってるの?」

「え…?」

 ベタ子さんは睨み付けたまま、僕の側に来た。

「悪い事をした人を罰する。確かにそれがあんたの使命でしょう。あんたは正義の味方なんだからね。」

 侮蔑の表情を浮かべて、ベタ子さんは言った。

「でも、でもそれがいつも正しい訳じゃないって事が、どうして分からないの?馬鹿みたいに悪人を裁いても駄目な時があるのが、どうしてあんたには分からないの?」

「でも、悪い人には、それ相応の罰を…。」

「だからおじさんを殺したって訳?おじさんは死ななければならない様な事をした訳?確かに私もおじさんを恨んだ。お金の為とは分かっていたけど、実際にここに来て、それが甘かった事を痛い程知ったわ。でも、でもおじさんは私の家族なのよ!?親に死なれて一人ぼっちだった私を引き取ってくれた、たった一人の家族なの!あんたはおじさんに手を掛ける時にそんな事を少しでも考えた?」

 あの時、僕は何も考えていなかった。ただ本能のままにおじさんを殴り、蹴り、身体を引き裂いた。でも、それはおじさんが悪いのだ。僕は弁解する。

「でも、おじさんはもうすっかりアル中だった。ベタ子さんを買い戻そう、なんて事を考えていなかった。」

「そんな事を言ってるんじゃないのよ!」

 ベタ子さんは灰皿を掴み、僕に投げつけた。僕はそれを避ける事すら出来ず、灰皿は頭に当たる。少し痛かった。多分、顔が少し凹んでしまっただろう。

 ベタ子さんは次々と辺りにある物を僕に投げつけた。僕は何一つ避ける事が出来ない。何故か身体が言う事を聞かない。僕の顔はどんどん凹んでいく。そしてベタ子さんはベットに突っ伏した。やがて啜り泣きが聞こえ、かすれた声で訴えた。

「どうしようもない、仕方のない悪い事もあるの…!やりたくないけど、悪事に手を染める事があるの…!あんたにはそれが分かってない。あんたは正義面して、人の心を踏みにじった。それは悪い事じゃないの?ヅャムおじさんを殺したのも、それは悪い事じゃないの?」

 ベタ子さんはすっ、とベットから顔を上げた。泣き腫らした目が赤く、しかし視線はどこまでも冷たい。僕は何も答える事が出来ない。そしてベタ子さんは静かに問うた。

「ねえ、それなら誰があんたを裁くの?」

 と、その時だった。表の通りからざわめき声が聞こえた。ベタ子さんは窓際に向かい、そこから下を見下ろす。

「タレコミだわ。アソパソマソ、警察よ。」

 僕は思わず身を堅くした。そうだ、この街はそういう街だ。警察はいないが、金の為なら平気で寝返る。そういう連中の住処なのだ。

 みるみるうちに通りには人だかりが出来ていく。振り向くと、ベタ子さんはキッチンでコップに水を汲んでいる。二日酔いなのだろうか、と考えていると、彼女はくるりと振り向き、僕の手前一メートルの所で止まった。そしてふっ、と俯いて黙り込んでしまった。

「ベタ子さん、一緒に行こう。」

 僕はベタ子さんの手を取ろうと手を伸ばす。しかしベタ子さんは代わりにコップを差し出した。驚いて顔を見ると、先刻までとは違い、柔らかい、優しい表情になっていた。

「貴方とは行けないわ、アソパソマソ。」

「どうして…?」

 ベタ子さんはそこで、悲しそうに微笑んだ。そこには諦めが漂い、ただ黄昏だけが支配している。

「だって、私にはもう帰る所がない。パン工場にはもう帰れないの。それに、他の街に行っても、ここに居た、ここで働いていた事なんてすぐに分かる。仕事も、友達も、住む所さえ与えられないでしょう。」

「そんな事ない!僕が何とかします!」

 ベタ子さんは、また悲しそうに首を振った。

「私には分かるの。ここはそういう街なのよ。」

 僕は愕然とした。確かにそれが現実だからだ。

「私はもうここから出られない。それに私自身、出たくないの。こんな街でも、住んでみれば好きになる。今は身体で稼いでいるけど、お金が貯まったらレストランでも始めるわ。勿論、ヅャムおじさん譲りのあのパンが自慢の、この街一番のレストランにするの。素敵でしょ?」

 僕は悲しくて仕方がなかった。ベタ子さんは、あの時のままの優しい人だった。僕はやっと、本来のベタ子さんに逢う事が出来たのだ。

「遠くの、遠くの国に行けばいいよ。そこでレストランを始めればいいよ!こんな街に居る事はない!」

 しかしそんな僕の言葉をベタ子さんは耳を貸さない。夢を見ているかのように、宙に視線を遊ばせている。譫言のように、ベタ子さんは続けた。

「だから、お金がいるの。沢山沢山いるの……。ねえ、アソパソマソ。きっと貴方には賞金が掛かってるわよね?」

 僕は耳を疑った。ベタ子さんは何を言っているのだ?

 と、そこで彼女の持つコップに目が止まった。

「今、私が貴方にこの水を掛けたら、貴方はきっと力が抜けて、私一人でも貴方を捕まえる事が出来る。」

 そしてベタ子さんは一歩足を踏み出した。僕は思わず後ずさる。

「待ってよ、ベタ子さん。冗談でしょう…?」

 出来るだけ明るく返したつもりだったが、声は明らかに震えていた。そしてベタ子さんは、その少女の微笑みのまま、言った。

「ここは、そういう街なのよ。」

 僕の恐怖は頂点に達した。慌ててベタ子さんを突き飛ばし、ドアから外に飛び出した。そして割れた窓枠に足を掛け、一気に飛ぼうとした。と、そこで背後に気配を感じた。振り向くと、そこにはベタ子さんが僕を見つめていた。僕は彼女の顔を見て、息を飲んだ。

 ベタ子さんは、泣いていた。それは切なそうな泣き顔で、涙が後から後から彼女の頬を伝っていく。

 僕は何か言おうとしたが、その前に彼女が口を開いた。

「さようなら、アソパソマソ。」

 そしてベタ子さんは静かに微笑んだ。

 僕はその声に押される様に、窓から飛び出した。

 みるみるアパートが小さくなる。僕が飛び出した窓からは、警官やラグナロクの住人達が顔を出し、口々に何か叫んでいる。しかしその中にはベタ子さんの姿はなかった。僕は堪らなく悲しくなり、更に上昇した。

 長い影が街を縞模様に変えていく。やがてラグナロク全体が小さくなり、やがて夕闇に消え、見えなくなった。


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todome

過去のホームページ時代より寄稿させていただいておりましたが、とある作品を完結させぬままに十数年すっかり忘れ、この度親方の号令により、再び参加と相成りました、todomeと申します。 主に小話を寄稿させておりますが、マンガ、ゲームにつきましても、今後ご紹介させていただこうかと思っております。どうぞお付き合いください。

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