彼の顛末 最終回

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 それからというもの、僕は毎日の殆どを警察の手から逃げ回る事に費やしていた。ラグナロクを後にして、僕は取りあえずパン工場とは反対側に向かい、少し大きな都市に潜伏した。しかしその度に足が付き、また次の街へと逃げた。それの繰り返しだった。

 海外に逃げよう、とも思ったが、それは出来なかった。空を飛んで行けば、間違いなくレーダーに引っかかり、多分戦闘機に迎撃される。では船はというと、あんな狭い空間ではすぐに僕の正体がばれ、しかも逃げ道はない。海に逃げても僕は水が苦手だし、飛べばやはり戦闘機に迎撃される。

 結局、僕は国内を転々とするしかなかった。

 西へ、東へと僕は逃げ続け、

ある時僕はふと思い付き、パン工場にも寄ってみた。既に捜査は終わっているらしく、人の姿は全くなかった。こっそりとそこに忍び込むと、パン工場はあの時以上に荒れ果てていた。埃が積もり、カーテンもひきちぎられている。壁にはチーヌの血痕がどす黒く残っており、床にもヅャムおじさんの血の跡が残っていた。

 テーブルの奥の力レーパンマン達の死体は既になく、代わりに壁の所々に落書きがされていた。多くがカップルの署名で、どうやら秘密のデートスポットになっているらしい。大方霊が出るとか、そういう事だろう。

 僕はぐるりと中を見回してから、パン工場を後にした。


 そして一年が経ち、僕は海岸沿いの街に来ていた。

 急激に都市化が進んでいるらしく、近代的な高層ビルと下町風情漂う横道が同居する、どこか不思議な街だった。僕は勿論ビル街を避け、下町の建物が並ぶ裏道に身を顰めていた。少しずつ開発が進んでいるらしく、建築中の工事現場や、取り壊し中のビルがそこここに見受けられた。隠れるには最適だった。

 さて、どこに寝床を探そうか、と僕は辺りを物色し、裏道をぶらぶらしていた。人通りが少ないとは言え、反射的に顔を伏せて歩いてしまう。情けなかったが、仕方のない事だ。捕まる訳にはいかない。しかしただ逃げ続けるだけの毎日というのは、確実に身体を蝕んでいく。逃げる事がこんなに肉体的、精神的に疲れてしまうとは思わなかった。僕の顔は逃走の途中で傷つき、欠けている。そのせいかもしれない。

 横道横道へと歩き、最後の角を曲がると、うかつな事に僕は大通りに出てしまった。慌てて元の裏道に帰ろうとすると、突然肩を掴まれた。振り向くと、そこには、

「ここまでだ、アソパソマソ。」

 その男はしつこく僕を追っている細江刑事だった。

「どうして…。」

 僕が思わずこぼすと、細江はにやりと笑って答えた。

「日頃、俺の行いが良いからだろうな。お前が飛び去った方向からこの街に来てみたが、まさかこんなに早くお前の姿を見つける事が出来るなんて、な。」

 そう、僕の逃走経路はあまりにも単純すぎたのだ。

 細江は手錠を取り出し、がちゃがちゃと鳴らした。

「これ以上逃げても仕方がないだろ。」

 そう言って、僕の手を掴もうとする。すると僕の身体は驚くほど反射的に動いた。

「嫌だ!」

 僕は細江の腕を掴んで逆関節に捻り、怯んだところで突き飛ばし駆け出した。細江は堪らずたたらを踏み、バランスを崩して尻餅をつく。チャンスだ。

 僕は全速力で走った。飛んでもいいが、欠けた顔では高く、そして早く飛べない。まだ走った方が何とかなる。

「待てッ、アソパソマソ!」

 細江の怒号を背に、僕は裏通りのビルの谷間に身を隠した。瓦礫の影に隠れ、様子を窺う。すぐにもの凄い形相の細江が走り去るのが見えた。ほっと一息吐くと、途端に疲れを感じた。僕は路地の更に奥に進んだ。この奥で少し休ませてもらおう。

 と、路地の奥はやがて広がり、空間を形作っていた。そしてそこには崩れ掛かった平屋があった。正面に玄関があるが、ドアはない。裏手に廻ってみると、窓という窓が全てトタン板で封印されている。再び玄関に廻ってみると、そこには既に表札はなく、どうやら廃屋らしい事が分かった。

 ここで休もう。そう思った僕は、何故か足音を忍ばせて中に入った。部屋は全部で四部屋あり、更に台所もあった。僕は位置関係を考えて、路地に面しているリビングに入った。そして窓のトタンを少しだけ剥し、路地の出入りを見張れるようにした。

 リビングには椅子が二脚あるだけで、床には瓦礫や取り壊しに使ったらしい工具が投げ出されている。僕は椅子に腰掛け、ふっ、とため息を吐いた。

 疲れてしまった。僕は本当に疲れ切ってしまった。

 だらりと頭を垂れ、ふと気になって欠けた顔の傷口を触る。乾燥していて、餡もパンもがさがさだった。

 こんな傷なんて、すぐにヅャムおじさんが直してくれるのに。

 そんな事をぼんやり思った。


「アソパソマソ、新しい顔だよ。」

 はっ、と振り向くと、そこには新しく焼き上がったばかりの僕の顔を持ったヅャムおじさんがいた。にこにこ笑い、まん丸の顔を揺すって、僕の顔を差し出した。

 嬉しかった。すぐにその顔を受け取り、古い顔を捨てて新しい顔を装着する。すると頭も身体も軽くなった気がして、みるみる全身に力が漲るのを感じた。

「ありがとう、ヅャムおじさん!」

 ヅャムおじさんは満足そうに何回も頷く。そこへ、

「アソパソマソ。力レーパンマンを迎えに行ってくれる?」

 ベタ子さんだった。少し大きすぎるコック帽を被って、優しい笑顔で僕に近づいてくる。

「ほら、美味しい力パンが焼けたから、持ってくるって言ってたじゃない。だから、迎えに行ってくれる?」

「ああ、そうでした。約束してたんだ。」

 僕は慌ててドアに駆け寄る。と、目の前でそのドアが開いた。

「ヅャムおじさん、ベタ子さん!持ってきたよ!」

 力レーパンマンと蝕パンマンだった。二人は力パンの入ったケースを両手一杯に持って、にこにこ笑っている。

 ベタ子さんが二人に駆け寄る。

「わあ、美味しそう!ほらアソパソマソ、二人が着いちゃったじゃない。」

 そう言ってパンを受け取り、台所に消えていく。

「遅いぜアソパソマソ。」

「寝坊でもしたんですか?」

 二人が揃って僕の肩を叩いた。僕は照れくさくなって頭を掻く。

「さ、お昼はスパゲッティーよ。二人とも食べてってね。」

 ベタ子さんは大皿一杯のミートソースを持って、台所から出てくる。ヅャムおじさんは既に席に着いていた。

「やった、スパゲッティー?」

「ご馳走になります。」

 二人はすぐに席に着いた。ベタ子さんも席に着き、

「ほら、アソパソマソも早く座って。」と僕を促した。

「…はい!」

 僕は元気良く答え、テーブルに駆け寄った。


「思い出か?」

 はっ、と僕は我に帰った。顔を上げるとそこにはあの細江が立っている。辺りも薄汚れた廃屋に変わっていた。

 夢だったのか。そう気付くと力が抜けていった。

「思い出だろ?アソパソマソ。」

 細江はまた手錠を鳴らしながら、にやにやと笑って僕に近づいてきた。僕は気を保って立ち上がり、身構えた。

「これ以上逃げても仕方ない、って言っただろ?」

 細江は僕のすぐ近くにまで迫っていた。

「もう逃がさねえぞ。観念しろ。」

 そう言う細江の伸ばした手を、僕は寸でのところで後ろにかわした。すると細江の顔が強ばった。

「嫌だ…。僕は…。」

 途切れ途切れに言葉がこぼれる。しかし細江はそれを聞いて一層顔を歪めた。

「正義の味方が堕ちたもんだ。人を殺しておいて、その上往生際悪く逃げ回ってるんだからな。」

 そして細江は憎しみを込めて僕を睨み付けた。

「お前、本当に正義の味方だったのか?」

「僕は悪くないんだ!」

 僕は我慢しきれずそう叫んだ。それでも細江は僕を睨み付けたままだった。怒りでも憎しみでもない、侮蔑の目だった。

「そんなのは俺の知ったこっちゃねえ。俺の仕事はお前を捕まえる事だ…。そういう話は裁判官にでもしろ!」

 そう叫ぶや、細江は僕に飛びかかってきた。堪らず僕は倒れ込み、もみくちゃになる。強烈な力が僕を拘束しようとする。

 嫌だ。捕まりたくない。僕は悪くない!

 無我夢中で伸ばした手に、何かが触れた。僕は反射的にそれを握り締め、身体を捻って細江に叩き付けた。

 ゴズッ、という鈍い音がして、細江の動きが鈍くなった。しかし僕の足をしっかりと握ったままだ。僕はその手を殴った。何度も何度も殴った。なのにそれでも細江は手を放そうとしない。僕は怖くなった。

 手じゃ、駄目なのだ。手を動かしている所を壊さなければ。

 直感的にそう思った。だから細江の頭を狙った。

 面白いように頭が凹んでいく。まるで僕の頭みたいだ。唯一違うのは、飛び出てくるのは餡ではなく、真っ赤な血である事だった。もう何も考えていなかった。ただ手が勝手に、細江の頭を殴り付ける。何度も何度も殴り付ける。

 ようやく細江の手が離れた。ううっ、と細江の口からは蛙の様な声が聞こえる。まだ生きているらしい。

 だから僕は渾身の力を込めて、振り下ろした。

 ぐじゃっ、と粘着質の音が耳に届いた。血が一際派手に飛び散り、細江はとうとう動かなくなった。

 気が付くと、呼吸が乱れていた。それはただ単にこの作業が思ったよりも手間取ったからに過ぎない。丁度街を一回り走ってきたような、どこか心地よい疲れが僕の身体を包んでいた。



「へへ……。ざまあみろ…。」


 最初、それが誰の声なのか分からなかった。耳の中で反響する声。誰よりも慣れ親しんだその声。それは、

 僕。僕だ。僕の、声。

 それに気付いた瞬間、僕の意識は急激に蘇ってきた。それと共に、辺りの情景が鮮やかに浮き上がる。

 血塗れで絶命している細江。息を荒くしている僕。そして僕が握り締めているのは、大振りのハンマー。それにはべっとりと血がこびり付いている。


「…………………………………………。」


 掌を見つめる。そこにも夥しい量の血液が付着していた。ぬるぬるして、気持ちが悪い。そして目の前には、細江が血塗れで絶命している…。

「うわぁぁ……。」

 僕は絞り出すように呻いた。

 これは何だ?どうしてこんな事になってしまった?

 僕の視線は掌の血液に集中する。突き刺さるような朱。その粘液の中から何かが浮かんできた。



「自分の中の悪を認めろ。」

 それはHIVマンだった。パン工場で言った謎めいた言葉。


「お前は悪魔だ。」

 それはヅャムおじさんだった。目が飛び出る程に僕を睨み付けて放った、呪いの言葉。


「あんたは私から何もかも奪ってしまうの!?」

 それはベタ子さんだった。崩れ掛けたアパートで、すっかり歪んでしまった心が言わせた、恨みの言葉。


 小さな生き物が、蠢いている。

 それはチーヌだった。荒れ果てたパン工場の隅で、一心不乱に何かを喰らっている。

「チーヌ、お前何喰ってるんだ?」

 僕の気配を感じて、チーヌが振り向く。それはすっかり野性に戻ったチーヌだった。獲物を僕に取られないように、凄まじい迫力で唸り、威嚇する。牙の隙間から唾液がぼたぼたと流れ落ちる。

 そっと近づき、見てみると、そこには汚く喰い散らかされた力レーパンマンと蝕パンマンだった物があった。

 ……いや、もう一体ある。あれは…。


「お前は自分自身に喰い殺されるぞ!」

 HIVマン。それはどういう意味なんだ?


 チーヌは僕に横取る意志がないと見るや、再び自分の食欲に集中した。やがて力レーパンマンと蝕パンマンに飽きたのか、チーヌはのろのろと奥の死体に向かう。

 いきなり顔に食いつき、引き裂いた。傷口から何かがどろりとはみ出た。黒くて、ざらざらした質感のそれは、

 間違いなく、餡だった。



「うわああああああああああッッ!!!」

 廃屋を飛び出し、僕は目茶目茶に走った。

 HIVマンの言う通りだった。

 暗い部分。僕の中には確かにそれがあった。

「ああああああああああッッ!!!」

 絶叫しながら、僕は走る。目茶目茶に走る。

 ゴロゴロ、と空が泣いた。いつの間にか雨雲が空一面に広がっている。一つ、二つと雨粒が落ち始め、みるみるうちに土砂降りになった。崩れた石畳に次々と水溜まりが現れる。

 その一つに僕は足を引っかけ、派手に横転した。身体を起こし、黒い空を仰ぐ。目から何かが流れ落ちる。視界が赤くなっていく。

「…………。」

 僕は拳を堅く握り締めた。そして叫んだ。

「洗い流せ…。」

 大量の雨が僕の顔に振り掛かる。少しずつ力が抜けてきた。でも、そんな事はどうでも良かった。ただ、終わりにしたかった。

 僕は声の限り叫び続けた。

「何もかも洗い流せ!」



 雨の降りしきる路地に、ぶよぶよの物が横たわっている。

 時折微かに動くが、それもあと僅かの事だ。

 HIVマンはそれに近づき、すぐ横に屈み込んだ。

「こんな結果にはしたくなかったんだ。」

 HIVマンは彼を悲しそうに見つめて、煙草に火を点けた。ふわり、と煙が立ち昇る。

「結局最期まで受け入れず、か。」

 HIVマンは煙草をもう一吸いしてから言った。。

「まあ、それもいいさ。お前らしいよ、アソパソマソ。」

 また僅かに動いた。HIVマンは彼をそっと抱き上げて、ぷっ、と煙草を吐き捨てた。

「帰ろう、アソパソマソ。」


 かえる…?


「ああ、パン工場に帰ろう。」
 すっ、と涙が流れ出した。


 かえろう。


 そして途切れた。

 HIVマンは彼を抱えて路地を出る。

 彼らとすれ違いざまに、一人の男が新聞を屑篭に捨てた。その日のトップニュースには、こうあった。


『HIVマンの死体を発見。死後五年以上経過。』


 しかしその文字も、雨に滲んで崩れていく。

 誰も振り向かない雑踏の中に、彼らは消えていった。




 ―了―


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todome

過去のホームページ時代より寄稿させていただいておりましたが、とある作品を完結させぬままに十数年すっかり忘れ、この度親方の号令により、再び参加と相成りました、todomeと申します。 主に小話を寄稿させておりますが、マンガ、ゲームにつきましても、今後ご紹介させていただこうかと思っております。どうぞお付き合いください。

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