世田谷異聞 第二回

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 改札を出た所で始めて、並平は雪が降っている事に気付いた。試しに息を吐いてみると、面白いように白い煙となって空に舞い上がっていく。それを見上げる並平の表情にほろりと笑みが浮かんだ。  上向きだった視線を地上に戻すと、改札横の柱の影に見慣れた後ろ姿を見つけた。並平は小走りに近づくと彼の肩を叩いた。 「マヌオ君、今日は早いんだね。」  彼、マヌオがゆっくりと振り向くと、そこで並平の表情が一瞬固まった。何故なら 「やあ義父さん。見て下さいよ、雪です。」  そう言ってマヌオは満面の笑みを浮かべていた。それだけなら特に驚く事はないのだが、しかしその表情はどこかいびつで、まるでライオンを目の前におどける道化師のような、そんな笑顔だった。  並平は数歩、退いた。何か、違う。並平は直感したが、 しかしそれを表に見せる事なくいつものようにマヌオに言葉を掛けた。 「寒くなりそうだ。どうだい、そこらで一杯。」  するとマヌオの笑顔は忽ち消え失せ、真っ黒な瞳孔を並平に向ける。視線がいつまでも定まらず、考え込んでいるようにも、ただ惚けているようにも見えた。 「マヌオ君?」  その声でようやくマヌオの視線が定まった。 「そうですね、こんな日は温まっても罰は当たらないでしょう。」  そして二人は駅前の繁華街へと足を向けた。  この日はペースが早かった。席に着いて三十分もしない内に、かれこれ五本のお銚子が空になっていた。並平は少し手元が怪しくなってきていたが、マヌオは平素のように背筋を伸ばし、酒を口に運んでいく。 「マヌオ君、そろそろ引き揚げないか。」  カウンターに頬を付けて、あやふやな口調で並平は根を上げた。しかし返事がない事を不審に思い、顔を上げてマヌオを見てみる。  マヌオはじっと前を向いていた。そして次々と酒を口の中に流し込んでいく。まるで機械だった。味わう様子も、無理をしている様子もなく、歯車で動いているかのように酒を飲んでいた。  並平は急激に酒が抜けていくのを感じ、力強く瞬きをした。その僅かな動きを感知したのか、マヌオがぐるりと並平の方を見る。やはり視線が定まっていない。並平は息を飲んだ。 「行きましょうか、義父さん。」  マヌオはそう言ってにやりと笑うと、そそくさと帰り仕度を始めた。並平はしばらくの間、動く事が出来なかった。  気が付くと、並平は炬燵の中にいた。台所の方から水の流れる音がする。胃のあたりが少し重いを所を見ると、どうやら茶漬けでも啜ったらしい。片づけているのは恐らく妻だろう。 「母さん、マヌオ君は?」  そう声を掛けると、すぐにヌネが暖簾の下から顔を出した。 「ああ、お父さん、お目覚めですか。お酒も良いですけど程々にして下さいな。」 「すまん。気を付けるよ。で、マヌオ君は?」 「お風呂ですよ。お父さんが先だって言ってましたけど、なかなか起きないから、先に入って貰いました。」  そこで並平は嚔をした。炬燵で寝たからだろうか。 「ああ、その方が良い。今日は寒いからな。」  ヌネは前掛けで手を拭きながら、並平の横に座った。  強い人だ、と並平はヌネを思う。自然と心もゆるゆると解れるようだった。しかし並平はそんな平安を乱す事を思い出した。  雪を見上げていびつに笑う、マヌオの姿。 「母さん、マヌオ君の事なんだが…。」 「どうかしたんですか?」 「いや、おかしくなかったかね。」 「……何かあったんですか?」」  それを聞いて並平は首を傾げた。感受性の強いヌネが気付かない訳がない。という事は、あれは自分の錯覚だったのだろうか。  不審そうなそうにヌネの表情に、並平は慌てて首を振る。 「いやいや、何でもないんだ。」  そこでガラリ、と音がした。風呂場のサッシの音だった。 「あ、マヌオさん上がったようですね。」  すぐにマヌオが居間に姿を見せた。 「ああ、お父さん。先に戴きましたよ。」  マヌオはいつもの朗らかな笑みを浮かべていた。あの時の異常な笑みではない。やはり錯覚だったのだろうか。  マヌオはそのまま炬燵に入り、ふう、と一息吐く。 「すみません。先に戴いてしまって。」  マヌオは心底済まなそうに並平に詫びる。 「いやいや。こういう日は早い者勝ちだよ。」  並平は慌てて笑みを浮かべ、そのまま世間話へと繋ぐ。しかしマヌオを観察する事は忘れなかった。表情、仕草、言葉遣い。どれもが平素のマヌオの物であるように見えた。  何だ、やっぱり儂の見間違いか。  それを確認して、並平はようやく安心する事が出来た。 「さて、お父さんも入って下さい。もうこんな時間ですからね。」  気が付くと既に12時を回っている。 「ああ、そうさせてもらうよ。」  不安から解放された並平は元気良く立ち上がり、そのまま風呂場へと向かった。  サッシを開けると中から勢い良く湯気が流れ込んできた。並平は小走りに中に入り、掛け湯の為に桶を手に取る。そして湯船の湯を掬おうと手を差し入れた、その時。  指先から激痛が走った。 「わっ!」  慌てて手を引き抜く。じんじんと鈍痛が広がり、やがて一つの感覚に変化する。それは冷たさだった。もう一度、並平はそっと、湯船に手を入れる。やはりそれは手を切るような冷水だった。  どうして湯船にお湯がないのだ?  そう考えると同時に、即座に並平の脳裏にマヌオの顔が浮かんだ。  彼がやったのか?何の為に?  取りあえず誰か呼ぼうと入口に顔を向けた、その時。  並平は息を飲んだ。  いつの間にか、サッシが僅かに開いていた。  そして隙間から誰かが覗き込んでいる。  マヌオが真っ黒な瞳孔を、並平に向けていたのだ。  口は動くが、しかし声が出なかった。その間もマヌオはじっと並平を見つめ、口を固く閉ざしている。 「マヌオ……くん。」  腹に力を込め、並平はようやく声を絞りだした。それを受けてマヌオはゆっくりと瞬きをし、恐ろしく明るい声で言った。 「どうです、お父さん。少し熱いけど、良い湯でしょう?」  その言葉に並平は混乱し、そして恐怖した。  そこへヌネの声が聞こえてきた。 「マヌオさん、お父さんどうでした?」  するとマヌオは並平が声を出すよりも早く、それに応えた。 「少し熱くて驚かれたようです。それで声を挙げたようですよ。」  その間もマヌオは並平から視線を逸らさない。サッシの向こうからクスクス、とヌネの笑い声が聞こえ、やがて遠ざかった。 「か……!」  母さん、と、並平は叫びたかった。しかしマヌオの暗い視線がそれを阻む。いや、それどころか更に並平に命じていた。  その風呂に入れ、と。  それに気付き、並平は戦慄した。雪降りしきる夜に、冷水に浸かれ、というのだ。当然並平の理性はそれを拒絶する。  思わずマヌオに言葉を掛ける。 「マヌオ君。まさか、こんな…。」  しかしその抗議もまた中断される。マヌオの目元には深い皺が寄っていた。時折痙攣するそれは、紛れもなく苛立ち、そして憎悪であった。  入らないと、恐ろしい事になる。本能が感じていた。  並平はぎくしゃくとした動きで腰を上げ、湯船の縁に足を掛ける。しかしそこも氷のように冷たく、躊躇してしまう。しかし背後から感じるマヌオの視線が並平を後押しし、とうとう爪先を水に漬けた。  ぎゅう、と並平は歯を食いしばり、足首、臑と湯船に足を差し込むが、腿のあたりで動きを止める。骨の奥から痛みが滲み出てきたのだ。並平は思わず顔を上げる。そこで並平は凍り付いた。  湯船横の鏡にマヌオの顔が映っていたのだが、そこに先程の苛立ちの表情を見たからではない。寧ろその逆であった。  サッシの隙間から覗くマヌオの目は今や三日月型に変わっていた。  笑っている。見てみれば口元にも笑みが浮かんでいる。この状況を心底楽しんでいるのだ。しかし並平が動きを止めたのを見るや、その表情はみるみる元の憎悪に戻っていく。並平は慌てて視線を湯船に戻し、身体を冷水の中に沈めていった。  そして並平は、肩まで冷水に浸かった。最早足先の感覚はない。身体中締め付けられるように痛い。ガチガチと歯の根も合わない。きしむように首を回し、並平はマヌオの方を見た。 「マヌオ君……。」 「寒いですから、ゆっくり温まって下さいね。」  全てを言い終わる前に、マヌオをそう言い放った。それはつまり、すぐに出てきてはならない事を意味する。  並平の頭の中は一瞬にして白くなった。  静かにサッシが閉じられ、風呂場には並平だけが残った。  冷たい水の中に身を浸している筈なのに、並平の額にはじっとりと汗が滲んでいた。そして怯えきった瞳からは生気が消えかかっていた。

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todome

過去のホームページ時代より寄稿させていただいておりましたが、とある作品を完結させぬままに十数年すっかり忘れ、この度親方の号令により、再び参加と相成りました、todomeと申します。 主に小話を寄稿させておりますが、マンガ、ゲームにつきましても、今後ご紹介させていただこうかと思っております。どうぞお付き合いください。

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