快活なヌネの声が並平に起きるよう促す。
しかし並平は既に起きていた。実際は眠らなかったのである。しかもそれが既に二週間も続いている。身体が泥のように重かった。
また、朝が来た。
ぐずついた頭のまま、並平はため息を吐いた。
あの日並平は鳥肌を見られないよう急いで自室に戻り、寝間着を着込んで床に滑り込むと途端に、ガチガチと歯が鳴り出した。次第に音は大きくなり、力を込めないと抑えられない程になった。
寒さだけではない。微かな怒り、不安、そして恐怖だった。久方ぶりに訪れたその感情に並平は狼狽え、それが更に歯の根を合わなくさせる。
そこへ滑らかな足音が聞こえてきた。ヌネである。並平は慌てて布団の中に頭を隠し、指を口に差し込んで歯に挟んだ含んだ。これで音は消え去ったが、しかしギリギリと歯が指に食い込んでいく。並平はそれにも耐えなければならなかったが、皮肉にもその事が更に歯を食いしばらせる。小さく、しかし耐え難い痛みが走った。
襖が開く音がし、その後ゴソゴソと音がすると、やがてヌネの寝息が聞こえてきた。そこで並平はようやく指を口から出した。うっすらと血が滲んでいた。並平は掌を握り締め、考えた。
マヌオ君はどうしてしまったのだろうか、と。
普段の穏和な彼からは想像も出来ない、残酷な仕打ちだった。自分に非があったのでは、と考えを巡らせてみるが、しかし何一つ思い当たらない。なのにあの暗い目を向けたのは、何故か。
不意に駅前でのマヌオの姿が蘇ってきた。あの異常な笑み。
全身に戦慄が走り、治まった鳥肌が再び顔を出す。思わず並平は低く唸り、目を固く閉じて、それを振り払うように考え続ける。
きっと会社で嫌な事があったのだ。マヌオ君も人間だから、虫の居所でも悪かったのだ。それでつい、儂にあたったのだ。
様々な解釈を立ててみるが、すぐにあの暗い目が浮かんで来て崩していく。それだけではあんな目をしないだろう。その矛盾がいつまでもついて回る。それどころか何も考えていないのに、ただただマヌオの暗い視線だけが頭の中に残ってしまった。そして並平の枕元にずるりと立ち、憎しみを込めて見下ろしている。
突如猛烈な胃痛と吐き気が並平を襲い、頭の中だけが熱くなる。並平は布団の中で身を固くし、それきり動く事が出来なくなってしまった。
翌日マヌオはいつものように振る舞っていたが、殊並平を見る時は眉間に皺を寄せ、あからさまに嫌悪を示す。並平もその視線を見ると風呂場での地獄を思い出してしまい、反射的に身体が動かなくなってしまう。その様子をマヌオは何やら呟きながら睨み付け、ついには並平が耐えられなくなり、その場を逃げ出す。そんな事が毎日のように繰り返された。
結果、並平は家の中では異常な緊張状態でいなければならなくなった。それは確実に精神を蝕み、
そして並平は眠れなくなってしまった。
のろのろと布団から這い出し、ぼんやりと宙を見る。居間の方からは食器の音が聞こえ、朝食は既に始まっているらしい。しかし並平はそこへ行く気がしなかった。胃がむかむかして何も食べたくないし、何よりもマヌオがいる。しかし、
顔を出さなければ不審がられ、恐らくマヌオの気に障るだろう。それだけは絶対に避けなければならない。しかし、
並平は空しい堂々巡りに落ち込んだ。しかしそれに気付く事無く、虚ろな目でカリカリと爪を噛み、額には汗が滲み出している。
「お義父さん、どうかしたんですか。」
突然襖が開けられる。並平は振り返る事はおろか、口を開く事すら出来ない。声だけで分かる。そこにはマヌオが立っていた。
マヌオは軽快に並平の元へと歩を進め、目の前で腰を低くする。
「どこか具合でも悪いんですか?」
その声は柔らかく、いたわりの感情が含まれていたが、顔を上げた並平はすぐさま顔を伏せる。
マヌオの顔にはにやけた嫌らしい笑みが張り付いていた。
波平が返事をしないのを見ると、マヌオは立ち上がり、
「もう歳だもんなぁ。」
そう小さく吐き捨てて、寝室を後にした。
並平はしばらくその場に佇み、突然立ち上がると寝間着のまま、弾けるように家を飛び出した。
並平は家から離れた公園で佇んでいた。
家にはもう帰りたくない。そう考えていた。
しかし、家には妻がいる。娘がいる。息子がいる。
そしてあの男も、いる。
ここで自分がいなくなったらどうなるだろうか。
自分を追いだそうとしている事は窺えた。多分、家長の席に自分が収まりたいのだろう。となると、この後どうなるだろうか。
まず妻が次の標的になるだろう。無理矢理介護施設に放り込むか、逆に不自然な程にいたわって骨抜きにするか。いや、あの男の事だから自分にしたように、陰湿にヌネをいたぶるかもしれない。
いずれにせよ、ヌネもあの家を去る事になるだろう。しかしそれだけで終わるだろうか。とてもそうは思えなかった。
妻であるザサヱは良い。問題はカシオとハカメだった。家長の座を完全なものにする為、子供達にも容赦無い攻撃をするに違いない。肉体的、精神的な虐待をする事は目に見えている。まだ小学生の子供達に耐えられるとは到底思えない。最悪の事態が頭をよぎった。
すると並平の心の中の怯えや恐怖は消え去り、代わりに強い怒りと使命感が燃え上がっていた。しかしその目は尋常ではなく、どこかマヌオのそれと似ていた。
憎悪、焦燥、そして狂気の目だった。
駅の近くの喫茶店に並平はいた。改札の様子が良く見える窓際の席で、並平は目を血走らせて乗客の流れを見つめている。いつの間にか降り出した雪が道路をうっすらと白く塗り変えていたが、並平はその事にすら気付く様子はなかった。
ただ、マヌオの姿だけを探していたのだ。そして呟いていた。
早く来い、早く来い、と。
改札奥に一際大きな人混みが現れた。帰宅ラッシュの第一陣である。どれも皆スーツの上にコートという、同じような格好をしていたが、並平の目はそれに全く惑わされる事無く、ほんの数秒見渡しただけで標的がいない事を確認する。そしてまた呟く。
早く、早く来い、と。
第二陣、第三陣と乗客が改札を通り過ぎ、並平は除々に苛立ちだした。時折テーブルを叩き、辺りの客を振り向かせる。勿論並平はそんな事など気にせず、感情をテーブルにぶつける。注意しようとしたウェイターすらも近付きかね、店内は鈍い打撃音だけが響き渡っていた。そして時刻は午後八時を回ろうとした、その時、並平の視線が一点に止まった。
その先には能面のように表情を無くしたマヌオがいた。
並平は手元に置いてあった紙袋を掴み上げ、喫茶店を飛び出した。少し激しくなった雪の中を、並平はマヌオに向かって一直線に駆け寄っていく。突然の接近にマヌオはそちらに顔を向け、無色の表情が一気に濁っていく。驚愕の表情であった。
並平は紙袋の中身を取り出し、そのままマヌオに体当たりする。一瞬マヌオの身体が宙に浮き、崩れ落ちそうになる。しかし何故か不自然な形で身体は止まった。その後二、三回、並平はマヌオに身体を押し付け、その度にマヌオの身体に衝撃が走る。マヌオは苦悶の表情で目の前の並平の顔を見る。
並平は笑っていた。口元を歪めて、醜く笑っていた。
そして並平はマヌオから離れ、解放されたマヌオはその場に崩れる。俯伏せに倒れたマヌオの腹部からは赤い液体が流れ出していた。
二人を囲んで人垣が出来、その中心で並平は高らかに笑った。
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過去のホームページ時代より寄稿させていただいておりましたが、とある作品を完結させぬままに十数年すっかり忘れ、この度親方の号令により、再び参加と相成りました、todomeと申します。 主に小話を寄稿させておりますが、マンガ、ゲームにつきましても、今後ご紹介させていただこうかと思っております。どうぞお付き合いください。
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