世田谷異聞 最終回

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じんわりとした暑さを感じて目を開けると、そこには少し染みの浮いた白い天井が見えた。いつもの木目のうるさい天井ではない。僕は一瞬混乱したが、すぐに事態を飲み込む。  そうだ。僕は病院にいるのだ。頭では病院の雰囲気に慣れたつもりでも、習慣とは恐ろしいもので身体はいつまでも世田谷の家に張り付いているのだ。僕は思わず苦笑する。  顔を上げて右手を見ると窓があり、そこから差し込む日差しが僕の額を焼き付ける。朝日とはいえ夏の太陽は目に痛い。今日も良い天気になりそうだった。自然と爽やかな気分になり、僕は軽く伸びをした。そしてふと思い付き、僕は反対側に顔を向ける。 そこには並平がぐったりと横たわっていた。ほんの二ヶ月前までは憎らしい程元気だったのに、今では顔は青白く目にも生気はない。身体もすっかりガリガリに痩せ細り、口や鼻からは細長いチューブが伸びている。元々年齢的には老人だったのだが、今やそれを飛び越えてしまっていて、  後で聞いた事だが、駅前での惨劇の後、並平は持っていた出刃包丁で自分の喉を突いたのだ。ところが周りにいた野次馬のお節介な通報により、波平はすぐさま病院に収容され、一命は取り留めた。しかし頚動脈の一部と気管が切断されていた為、一時的に脳が酸欠状態に陥った。結果脳細胞が破壊され、所謂植物状態となった訳である。  つまり喋る事は勿論、最早自力で物を食べる事や呼吸する事も出来ないのである。かつての威厳は微塵もなく、辛うじて生かされているという状態なのだ。  僕はしばらくその姿を眺め、そして声を殺して笑った。  こんなに上手く行くとは思わなかった。随所に予想外の事態が起こってしまったが、しかし結果的に並平は死んだも同然になった。もう僕を潰そうとする奴はいない。僕を縛る奴はいないのだ。  これで僕は異園家から自由になったのだ。それどころか異園家自体が僕の物になった。新しい異園家が始まるのだ。  胸の奥から次々と笑いが込み上げてくる。僕はそれを味わい、しかし噛み殺しながら、並平の顔を眺めて勝利の余韻を味わった。これまでにない満足感を感じ、僕は無性に煙草が吸いたくなったが、残念ながらここは病院だし、煙草の匂いがしたらさすがにおかしいだろう。ここはじっと我慢して、勝者と敗者という厳粛な雰囲気を味わう事ににしよう。そして家に帰ってから、ゆっくりと煙草の味を楽しめば良い。  そう決めて、ふと、壁の時計を見上げる。もうすぐ十時になる。そろそろ来る頃だろうか、と思っていたその時、病室のドアが開いた。僕は慌てて顔を平素の状態に戻し、そちらへと目を向けた。  そこには大きな包みを抱えたハカメが立っていた。大きさから見て、多分朝食と着替えだろう。果たしてハカメは包みの陰から顔を覗かせて快活に言った。  「お兄ちゃん、朝ごはん持ってきたよ。」  僕は出来るだけ複雑そうな笑みを浮かべた。  ハカメと交代して、僕は病室を出てエレベーターに乗る。一階のボタンを押し、箱が降下し始めた瞬間、不意に僕の頭に一人の男の顔が浮かんできた。  今回非常に良く働いてくれた、あの男の顔だ。  お人好しでお節介な性格を、少なからず皆が疎ましく思っていた。その為に家族の中で孤立してしまい、本人も相当気に病んでいたのは端から見ても窺えた。今回はそこを利用させてもらったのだが、まさかあそこまで思い通りに動いてくれるとは思わなかった。  「お父さんの事で話があるんだけど。」  その一言で喰い付いてきた。出任せとは知らず並平の存在をちらつかせるだけで、みるみる表情が変わっていた。孤立の原因が自分にあるとは少しも思っていなかったらしく、心から並平の差し金であると信じ込んでしまったのだ。そこまで追い詰められているとは思っても見なかったが、もう一つ、並平の反撃も予想外だった。  あれは失敗だったかな、と思う。  しかしそれ以上の感情はない。負け犬は負け犬なのだから。  やがてエレベーターは止まり、ドアが開いた。真っ直ぐにロビーを横切り、正面入口をくぐって外にである。青空が眩しく、思わず目を細め、そして思う。  煙草も線香も同じ煙だから、弔いにはなるよな、マヌオ義兄さん。  気だるげに首の骨を鳴らし、カシオは陽炎の揺らめく道を走り去っていった。  ―了―

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todome

過去のホームページ時代より寄稿させていただいておりましたが、とある作品を完結させぬままに十数年すっかり忘れ、この度親方の号令により、再び参加と相成りました、todomeと申します。 主に小話を寄稿させておりますが、マンガ、ゲームにつきましても、今後ご紹介させていただこうかと思っております。どうぞお付き合いください。

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