旅の果て 最終回

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  朝日が昇る前に、私は洞窟の入口に立っていた。一歩足を踏み入れると昼間と違い、中は真っ暗である。何かに躓き、転びそうになる。慌てて、持ってきた蝋燭に火を点し、ようやく三メートルほど先まで確認することができた。  何が待っているのだろう、と、美しいあの景色が待っている。同時に思い浮かんだ。 頭の中の地図従い、無数の分かれ道を進んでいく。右、左、真ん中。最初は地図を頼りに歩いていたのだが、しかしやがて不思議なことに、その地図を意識することなく歩いている自分に気が付いた。そう、まるで知っているように。  やがて例の五叉路に到着した。夢と同じ場所に立ってみる。そこから向かって右が、例の矢印が示された通路である。天井が少し低く、道幅もやや狭い。少年の身体である私でも、そこを通り抜けるのは困難だろう。しかし帰るつもりは毛頭ない。  私は身体を低く、小さくし、むりやり通路の中に入った。頬や脛を擦ってしまったが、痛みはない。やがて狭い空間はすぐに終わり、 通路は元の広さに戻った。道はまだ奥まで続いている。その時天井から光が差した。朝日が顔を出したようだ。私は蝋燭を吹き消し、そのまま道なりに歩を進めていった。  その後もいくつかの分かれ道が続いていたが、私は迷うことなく歩き続けた。やがて、音が聞こえてきた。何かが崩れるような、腹にまで響いてくるような音。私は音のする方へと向かう。すると前方に光が見えた。出口だろうか。私はそちらへ向かって駆け出した。  強烈な陽光に目が眩む。視界が真っ白になったが、やがて色彩を取り戻し始める。見回してみると、そこは柔らかな芝生に覆われたちょっとした広場になっており、辺りはやはり鬱蒼とした緑に囲まれている。目の前には綺麗な泉があり、その向こうには崖が迫っている。そしてその上から夥しい量の水が落ちていた。滝である。先程の轟音の正体はこれだったのだ。  私は泉に近づき、中を覗き水は透明を通り越し、少し青みがかっており、小さな魚が無数に泳ぎまわっているのが見えた。そっと手を浸してみる。ひんやりと気持ちが良かった。見上ると空が円形に切り取られており、真っ青な空を見て取ることができた。  そこはまさに、別世界だった。  私は芝生に腰を下ろし、身体を倒した。自分の意外な反応に驚いていた。暗い洞窟とは対照的な、これほど美しい景色だというのに、少しも心が動かない。感動しないのだ。私は決して無感動な人間ではない。なのに喚起の声を漏らすことも、身体が震えることもないのである。  私はここに、来たことがある…? 「慎ちゃん!」  その声で私は飛び起きた。いつの間にか眠っていたようだ。日はまだ高く、丁度正午といったところか。声のした方を見ると、そこには健一が立っていた。彼はゆっくりと辺りを見回しながら、こちらに近づいてきた。そして目を輝かせると、 「こんなところに繋がっていたんだな!慎ちゃんが見つけたんだな!すごいや!池があるし、滝もあるし、結構広いし、ここは最高だな!」  と、一気にまくし立てた。相当興奮しているようだ。無理もない。ここは大冒険の末に辿り着いた、まさに桃源郷のようなものだ。 「今朝、慎ちゃんの家に行ったら、朝から姿が見えないっていうじゃないか。だからここに来てるだろうと思ったんだけどさ、いや、本当にすごいところに来たなぁ!」  健一は未だ信じられないようで、きょろきょろと辺りを見回す。そして一通り泉の周りを歩き終えると、何を思ったのか着ていたシャツを脱ぎ捨てると、あっという間に水の中に飛び込んだ。しばらくの間潜水してから、健一は気持ち良さそうに水しぶきを上げて、顔を出した。そしてケラケラと笑いながら、 「慎ちゃんも来いよ!気持ち良いぜ!」  私は一瞬躊躇したが、暑かったせいもあり、健一に続いてシャツを脱ぎ、水の中へと飛び込んだ。全身をひやりとした水が包む。健一がまた潜ったので、私もそれに続いた。  水の中は全くの透明で、泉の底までよく見えた。ゆらゆらと水草が揺らめき、差し込む陽光がキラキラとたなびく。健一が一点を指した。見るとそこには直径一メートルほどの穴があった。恐らくどこかの川へと繋がっているのだろう。  健一と共に浮上し、一旦岸に上がった。 「あの穴は何だろう?まだどこかに繋がってるのかな?」 「川に繋がってると思うけど、息が続かないから無理だね。」  すると健一は立ち上がって首を振った。 「いや、何とかして確かめてやる。」  そして私の方を向き、急に真面目な顔で言った。 「慎ちゃん。ここのことは特に、特に秘密だぜ!」  それは、いつか聞いたことのある科白。あれは確か、  青い空。鬱蒼とした緑。清らかな水。そして少年が一人。 「ここは秘密の場所なんだ。俺の父さんが見つけたんだけど、  荘厳な滝。白い雲。蝉の声。そして暗い洞窟。 「これが地図だ。矢印があるだろ。この先にすごい場所があってな、  じんわりとした暑さ。焼け付いた地面。時折の風。そして、 「あのお祭り、まだやってるのかしら  その瞬間だった。辺りの景色が急に歪み、急激な目眩を感じた。ぐらぐらと地面が揺れ、方向感覚がなくなる。どちらが地面で、どちらが空なのかも分からない。堪らず私はその場に突っ伏した。移動が始まったのだ。 「おい、慎ちゃんどうした!?大丈夫か!?」  慌てて駆け寄る健一の姿も歪み、目を開けていることすら辛くなってきた。  まだ、ここを去るわけにはいかない。もうすぐ思い出せそうなのに、半端なままでここを去るのは嫌だ。私は歯を食いしばり、頭の中心に意識を集中した。それでここに留まれるのかは分からない。第一、これほど次の場所へ旅立つことが嫌だったことがない。半ば無意識の内に、意識を集中していたのだ。しかし無情にも不快な浮遊感は強くなる。 「とにかく家に帰ろう!」  すぐさま健一は私を担ぐと、再び洞窟の方へと引き返した。  家に運ばれた私はそのまま布団に寝かされた。実際、酷い目眩のために立っていることができなかったのだが。すぐに医者が呼ばれたが、恐らく暑さが原因だろう、と全く的外れな診断をして帰っていった。ぼやける視界の中で、私の周りに姉と健一が心配そうに覗き込んでいるのが見える。 「健ちゃんありがとうね。貴方がいなかったら大変だった。」  姉は健一に深々と頭を下げた。健一は何と応えたら良いものか、おろおろと視線を彷徨わせている。姉は私の方に顔を向け、 「まったく。あんな朝早くからどうして山に行ってたのかしら。」  と、ため息混じりに言い、私の額に乗せられた手拭いを取り替える。ひんやりとした感覚。そして姉の柔らかな指先。羽のように軽かった。一瞬目眩が軽くなったように思えた。 「じゃあな、慎ちゃん。今日はゆっくり休むと良いよ。」  そう言って健一は腰を上げ、そのまま部屋を後にした。私と姉だけになった。 「元気が良いのは結構だけど、限度ってものがあるのよ。」  そう言って姉はまた手拭いを取替える。それを聞き流しつつ、私は先程の一瞬の記憶を思い出していた。ほんの一瞬だが、強烈な印象を持った、遠い昔の記憶。  声が聞こえていた。少年の声と、女性の声。特に女性の声の方が印象的だったように思う。どこかで聞いたような声だった。優しい、涼やかな声だった。そう、 「本当に、健ちゃんにはお礼を言っておくのよ。」  こんな声だった。あれは、姉の声だったのか…?  私は目眩の中、考え続けていた。  日が落ち、夜になった。相変わらず目眩は酷かったが、私は何とか縁側まで辿り着き、空に浮かぶ満月を眺めていた。そしてこれまでのことを考えていた。  洞窟。地図。滝。私によく似た智之という男。妙な懐かしさ。そして、姉。  布団で横になりながら、何度も繰り返し考えていた。  そしてあの一瞬の記憶。少年の声と、女性の声。私が幼かった頃の記憶だ。  これらを組み合わせ、絡み合わせて考え、私の中で一つの結論が下った。  それはとても単純で、少し切ない結論だった。しかしまだ確証はない。どうやってそれを確かめようか、と考えていると、姉が廊下の向こうから歩いてきた。私の姿を認めると、少し心配そうな顔をして近づき、横に座った。そして私と同じように月を眺める。不意に私の方に顔を向け、言った。 「もう大丈夫?」  本当は大丈夫ではなかったが、無理に笑顔を作って頷いた。姉はほっとした様子で、また空に視線を向けた。 「姉さんは、いつ、智之さんと結婚するの?」  私は最後の確認を取った。姉は急な私の問い掛けに面食らっていたが、ほんのり頬を赤らめて、十月、と言った。それが決め手だった。もう、間違いはない。確かに十月だった。  どうしてもっと早く気が付かなかったのだろう。時代が違っていたせいか、それともこの厄介な旅のせいなのか。いずれにしても、遅すぎた。もう、時間は僅かしかない。全ての謎が解けた今、この場所に対する思いは一層強くなっていた。留まっていたいが、僅かな時間で私にできることは、一つだけだった。 「姉さん。」  私はそっと姉に声をかけた。 「何?」  姉はまだ頬を赤らめ、伏し目がちに応える。私はその横顔をじっと見つめた。気が付いてみれば、確かに面影がある。いや、面影という言葉はこの場合適切ではないかもしれない。確実に言えることは、その純粋な美しさだけだった。私の視線を感じて、姉はこちらに顔を向ける。胸の奥に何ともいえない郷愁が去来していった。  私ができるたった一つのこと。それは、 「姉さん達はきっと、  そこで強烈な目眩が襲った。私は頭を抱えて縁側に倒れる。驚いた姉は私を抱えて布団の方に運ぼうとした。しかし私は首を振ってそれを制し、姉の膝に頭を置いた。 「姉さん、しばらくこのままで、いてくれないかな。」  姉は不思議そうな表情を浮かべたが、そのまま私の頭を撫でてくれた。  ふんわりと、甘く、爽やかな香りが鼻をくすぐる。姉の香り。そして、あの人の香り。  やがておぼろげではあるが、ある記憶が浮かんできた。それはやはり私が幼かった時の記憶である。抜けるように青い空。伸び上がるような白い雲。鮮やかな緑。それは私の故郷の映像であった。  どこかで虫の声が聞こえる。頬を撫でる風も心地よいものになっていた。もうすぐ夏が終わり、秋がやって来るのだ。そして今回の私の旅も終わり、次の場所へと向かわなければならない。目眩に加え、瞼が重くなってきた。目を瞑ったら、ここから去ることになるのだろう。  私ができるたった一つのこと。それは、心からの祝福だった。 「さっきの話だけどね、姉さん達はきっと」 「きっと?」 「きっと幸せになるよ。」  すると姉は、すっ、と涙を流した。そしてふんわりと、笑った。 「僕は知ってるんだ。姉さんは幸せになるんだよ。」  次第に視界が暗くなる。もう、ここまでだ。  私はついに、目を瞑った。  あの洞窟には入ったことがあった。  あの滝は見たことがあった。  智之さんは私に似ていた。  でも、それは当たり前のことだったんだ。  最後に会ったのはいつだったっけ。  もう五、六年は会ってないよね。  次の休みには、必ず会いに行くよ。  きっと会いに行くから。  じゃあ、その時まで、  さよなら、母さん。 ‐

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todome

過去のホームページ時代より寄稿させていただいておりましたが、とある作品を完結させぬままに十数年すっかり忘れ、この度親方の号令により、再び参加と相成りました、todomeと申します。 主に小話を寄稿させておりますが、マンガ、ゲームにつきましても、今後ご紹介させていただこうかと思っております。どうぞお付き合いください。

コメント

  1. l伊勢 悠里 より:
     久しぶりに時間を忘れて読める小説に出会えました。読後に温かい気持ちになれたというか…。私の拙い文章力ではなんともこの感動を表現しきれないのですが、とにかく惹きつけられました。というわけでお邪魔かと思いましたがコメントさせていただきました<(_ _)>
  2. galthie より:
    伊勢 悠里 様 コメントありがとうございます。 当サイトの管理人のガルティエといいます。 トドメ氏の小説に感想ありがとうございます。 本人からのコメントをもらいたいところなのですが、 トドメ氏は自宅からネットが出来ない状態のために 今しばらく時間がかかると思います。 本人も喜ぶと思いますので必ず伝えておきます。 今しばらくお待ちください。 これからも当サイトをよろしくお願い致します。
  3. トドメ より:
     柔らかな、暖かい感想、ありがとうございました。非常に分かりにくい内容だったのではないかと、少々心配していたところでしたので、非常にありがたく思います。  現在、私用が多忙につき、筆が止まっておりますが、完成した暁には是非目を通していただきたく思います。ありがとうございました。
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