映画 「華麗なるヒコーキ野郎」(1975年)

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 今回は久しぶりに映画のお話をいたしましょう。取り上げるのは1975年公開されたアメリカ映画「華麗なるヒコーキ野郎」であります。本作もこれまで当ブログでご紹介してきた映画たちと同様に、BSで流れていたのを見まして、「これは良いものだ」鼻をフガフガしてしまいました。

 相当昔の映画でありますから、ネット上には山ほどレビューがあるに決まっているのですが、そんなのは知らん書きたいので書かせてください。さて今回もこれまでの映画レビュー同様に、私は「面白ければ監督や俳優が誰だって良いや!」というボンクラなので、むつかしいことは一切ナシにして、「どういう内容で、どう感じたか」だけをお話しいたしますし、フツーにネタバレもしてしまいますので、どうぞご了承ください。

 それでは本作のあらすじからお話しいたしましょう。

 

 時は第一次大戦後、戦争中は空軍に所属していたウォルドは空が忘れられず、自前の複葉機を駆って各地で曲芸飛行を行う曲芸師として暮らしていました。ある日同業者のアクセルとの小競り合いに勝ち、意気揚々と酒場で大戦中の武勇伝、すなわちドイツの撃墜王ケスラーとの空戦を語りますが、そこへアクセルがやってきて、ウォルドがケスラーとの戦闘には参加していなかったことを暴露し、ウォルドは赤っ恥をかいてしまいました。

 汚名返上とばかりに新型飛行機の開発に乗り出すウォルド。しかし開発資金が足りず、興行師に自らを売り込みますが、目新しい技が無いと一蹴されます。そこでアクセルと組んで新たな曲芸飛行を考案、酒場で出会ったメアリーを翼の上に乗せて飛行するというものでしたが、しかし本番中、恐怖で動けなくなったメアリーはそのまま翼から滑り落ち、命を落としてしまいます。

 事故を受けて飛行免許を剥奪されるウォルド。曲芸師として彼を使おうとする者は誰一人おらず、仕方なくハリウッドに移り住んで成功していたアクセルを訪ね、ツテを頼ってスタントマンとしての職を得ます。そしてある日、空戦のスタントマンを引き受けたウォルドは、アドバイザーとして迎えられていた撃墜王ケスラーに出会うのでした。

 

 曲芸飛行を題材とした物語ですから、作中には多くの飛行シーンが取り入れられています。CGなど無い時代ですから、恐らく本当に飛行機を飛ばし、そこにカメラを載せて撮影したのでしょう(合成はあったかもしれませんが、分からなかったです)。

 俳優やスタッフ一同は相当肝を冷やす思いをしたことは想像に難くありませんが、その甲斐あって映像はスリリングな曲芸飛行の世界を十二分に表現しており、大空の広さ、飛行機のスピード感、そして墜落の恐怖までもが画面からはみ出んばかりに感じられます。しかしもちろん、本作のメインテーマはそこにはありません。この物語のテーマはあまりにもド直球な「戦争」なのです。

 

 主人公ウォルドは戦争という死の淵から生還したにも関わらず、やはり死と隣り合わせの曲芸飛行を生業としています。そして彼は撃墜王ケスラーとの空戦を自慢げに話すのです。しかし先述のように、実際にはケスラーとの空戦は行われませんでした。何故彼はこのようなウソをついているのでしょう。

 恐らく、彼の中ではまだ戦争は「終わっていない」のです。それはどちらの国が勝ったのかという国家的な視点ではなく、あくまでも彼の個人的視点においてであり、すなわち「自分は戦っていない」という点でしょう。

 

 事実、ウォルドはアクセルが暴露したように、戦闘には参加しませんでした。命が助かったことは幸運でしたが、しかし彼の心は勝ちでも負けでもない、非常に中途半端なままになってしまった、つまり「戦争が終わっていない」と感じていると思われるのです。

 これで彼がケスラーと戦ったというウソをついた理由がお分かりでしょう。戦争が終わったという区切りをつけるためには、何かと戦ったという出来事が必要だったのです。もっともこのウソはウォルド自身もウソだと認識しているので、欺瞞というよりは見得と言った方が正しいでしょう。

 しかしそれはあくまでの見得に過ぎず、やはり彼の中で戦争は終わっていません。だからこそ彼は空にこだわり、また危険な飛行へと駆り立てたのでしょう。それは彼の中の戦争を終わらせる「何かの区切り」を求める飛行であり、その根底には勝ち負け、すなわち「墜落による死」か「偉業による栄光、つまり生」であったと思われます。

 ところがメアリーの事故によって彼は空を奪われます。空は彼にとって全てであり、同時に戦争そのものでもあります。これを奪われることは、彼の中の戦争がいつまでも終わらないことを意味し、ひいては彼の人生がそこで止まってしまうことを意味するのです。

 生にしろ死にしろ、自分の人生に次の展開をもたらすためには、やはり彼には空を飛ぶしかなかったのです。そこで空戦スタントの仕事でケスラーに会うのですが、ここで物語の終盤をお話しましょう。

 

 ウォルドとケスラーは例の武勇伝の話を語り合います。ウォルドは伝え聞いた内容を、ケスラーは実際に自分が見聞きしたことを話し、次第に互いの目の輝きが増していきました。二人は目くばせをすると飛行機に乗り込み、監督の指示を無視して目も眩むような空中戦を繰り広げます。

 やがて勝負が着き、ケスラーはウォルドに敬礼をします。それはかつてウォルドが酒場で繰り広げた自慢話そのままでした。ウォルドは穏やかに微笑むのでした。

 

 …お分かりですね。この空中戦によってウォルドの欠けていたピース、すなわち「自分は戦った」というピースがはめ込まれたのです。ウォルドの止まっていた時間はようやく動きだし、彼の戦争は「終わった」のです。

 

 人生には様々な出来事が起こります。自分の意思が介入できる出来事であれば、その行いが何かしらのフィードバックをもたらし、その人に何かしらの手ごたえを残してくれるでしょう。これが恐らく「生きた」という実感なのです。

 しかし自分の意思が介入できない、そしてとても大きな出来事に巻き込まれたとしたら、私達はどのように手ごたえを得て、生きたという実感を得れば良いのでしょう。現代は様々な「個人の意思が介入できない」出来事で溢れかえっています。

 それらは理不尽で、あるいは突然で、あるいは受け入れがたい結果を残します。それらを乗り越えるには、恐らくウォルドが何度も空を目指したのと同じように、何度もその経験を思い出し、あるいは繰り返し、「生きた」という手ごたえを得るしかないのでしょう。しかしそれは停滞では決してなく、出来事を消化するために、そして納得するために必要な時間なのだと思います。

 

 ということで、感想はここまでといたしましょう。お時間がありましたら是非ご覧いただきたいと思います。


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todome

過去のホームページ時代より寄稿させていただいておりましたが、とある作品を完結させぬままに十数年すっかり忘れ、この度親方の号令により、再び参加と相成りました、todomeと申します。 主に小話を寄稿させておりますが、マンガ、ゲームにつきましても、今後ご紹介させていただこうかと思っております。どうぞお付き合いください。

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