映画 「スローターハウス5」(1972年)

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 今回は珍しく映画のお話をしようと思います。理由は最近BSプレミアムで見た映画「スローターハウス5」がなんか面白かったから。実に安易ではありますが、しかし「面白かったから感想を書く」というのは、我ながら実にストレートで実直な理由と言えます。

 ただ、私は映画について全く詳しくない上に、「監督が誰々」とか「主演が誰々」とかは全く興味がなく、「面白ければそれで良い」というボンクラなので、作品の時代背景とか、監督の創造性とかには全く触れず、「どういう内容で、どう感じたか」をお話しするだけです。また必要に応じてガンガンネタバレもしてしまいますので、どうぞご了承ください。

 それでは「スローターハウス5」のあらすじをご紹介しましょう。

 

 

 主人公ビリーはどこかの出版社に送るべく、自叙伝を執筆していた。彼は自分の半生を記す前置きに、奇妙な一文を記す。曰く、

 

「私は自分の意志と関係なく、過去や未来や現在を行き来して生きてきた」

 

 この一文をタイプした次の瞬間、ビリーは第二次世界大戦の戦場にいた。ビリーは近くにいた兵士、ラザーロとウォーリーにドイツ兵と疑われるが、すぐに3人とも本当のドイツ兵に見つかり、ラザーロに「お前のせいだ」と殴られてしまう。

 目が覚めると、ビリーは妻バレンシアとベットの中で抱き合っていた。妻の抱擁にうっとりと目を瞑るビリーだったが、目を開けるとビリーは再び戦場におり、ドイツ兵が倒れているビリーを写真撮影していた。

 カメラのフラッシュが消えると、ビリーはビルの落成式に出席していた。ビリーは実業家として成功しており、政財界では一目置かれる存在なのである。華やかな落成式は大変な混雑で、ビリーはその輪の中でもみくちゃになる。

 人混みをかき分け、気が付くとビリーは混み合った列の中にいた。捕虜として列車に乗せられるのだ。列車に乗り、しばらくすると、ウォーリーが凍傷が原因の高熱を出し、命を落としてしまう。これをビリーのせいだと激怒したラザーロは「いつかお前を殺してやる」と凄む。

 列車は収容所に到着。この収容所は手違いで食糧が豊富にあるらしく、疲れ切ったビリーの前に温かな食事が運ばれるが、極度の疲労により、ビリーはその場に倒れ込む。

 目が覚めると、ビリーは妻と共に新居でくつろいでいた。愛犬と共に夜の散歩に出かけ、ふと空を見上げると、奇妙な光を放つ飛行物が見えた…。

 

 

 …えぇと、これで話の1/3くらいなのですが、取りあえずはこのくらいでやめます。恐らくみなさん、既にどういう話なのか、よく分からなくなってきていると思うからです。実際、この物語は目まぐるしく場面転換し、しかも時系列は無視され、前後に全く脈絡がない構成となっています。唯一のつながりは「主人公ビリーの状況と関連して次の場面に移る」ということくらいです(先述のように、人込みをかき分けていくと、いつの間にかスシ詰めの列車内に場面が移っている)。

 この後ビリーは「捕虜としてドレスデンに連れて行かれる」とか「飛行機の墜落事故に遭う」とか「宇宙人に連れて行かれ、トラルファマドール星に住む」とか「ドレスデン大空爆に巻き込まれる」とか「演説中にラザーロに暗殺される」などの出来事に遭遇しますが、やはりそれらは時系列に沿った形ではなく、全く脈絡のない順番で示されていくのです。

 

 

 さて、全編見終わった私の最初の感想は「ものすごく上手く映像を繋げているな」というものでした。先述の通り、場面転換は主人公ビリーの状況と関連して行われるのですが、これが実に自然で、ワイプやカットがこれほど効果的に使われている映像はなかなか無いように思えます。

 ですから先程「どういう話なのか、よく分からなくなってきていると思う」と書きましたが、それは私の拙い文章だからであって、これが映像で示されると、全く違和感がないのです。ですから、物語はいかにもビリーが時空を漂っている様子を描いているように見え、脈絡を完全に無視しているにも関わらず、実に明快にビリーの時空彷徨を追体験出来るのです。これだけでも、十分に見る価値があると思います。

 

 しかし、場面が時系列を無視して提示されていることを除けば、物語は非常に単純です。つまり

 

 ビリーは第二次世界大戦に参加し、ドイツ軍の捕虜になる。ドレスデン大空爆に巻き込まれるが、生き残って帰国。バレンシアと結婚し、実業家として成功する。その後、墜落事故に巻き込まれて生き残るが、動転したバレンシアは事故死する。直後、宇宙人によって連れ去られ、トラルファマドール星で憧れていた女優と同棲、宇宙人の観察対象となる。やがて女優との間に子供をもうけた後に地球に戻り、自叙伝を書く。そしてこれまでの生涯を演説中に、ラザーロによって射殺される

 

 ということになります。途中、アブダクションが発生する以外は、それほど奇怪な事件が起きるわけではありません。それではこの物語は単に構成を分かりにくくしただけのお話なのでしょうか?私は妙な違和感を感じました。

 

 ここでは私は「そもそもビリーは本当に時空をさまよっているのか?」という疑問を抱きました。あくまでもさまよっていると感じているのはビリーの主観であって、それを客観的に観察している人物はいません。トラルファマドール星の宇宙人はビリーを観察はしていますが、ただビリーと女優が愛し合う様子を眺めているだけです。

 しかしこの宇宙人は遠い過去も、遥か未来も見ることが出来るのです。そしてビリーはこの宇宙の最後の瞬間を聞かされます。ビリーも過去や未来を行き来していますが、それは自分の生涯に限られ、自分が生まれる前や、自分が死んだ後の時代には行けないようなので(劇中、そのような描写がない)、この話には興味を示します。

 宇宙人曰く「ある装置の試験中、間違ったボタンを押したために宇宙規模の爆発が起き、この宇宙は消滅する」のだそうです。これを聞いたビリーは、「誰かそれを止めようとは思わなかったのか」と問いかけますが、宇宙人は「どのようにしても、間違ったボタンは押されてしまう。そのように時間は流れている」と答えるのです。

 つまり宇宙人によれば、世界は決められた流れに沿って進んでいるに過ぎないことになります。つまり運命論ですね。誰かが何かをしても、それらは全て織り込み済みである、という考え方です。しかしながら、「全ては決まっていた」と考えるのは、「一連の流れを全て眺めた後だから、そのように思う」とも言えます。つまり結果論です。実際、結果論を展開出来るのは、一連の事象が全て明らかになった後だけです。

 さて、ビリーがいつから時空をさまようようになったのかは示されていませんが、もしかすると、この過去も未来も見通せる宇宙人との接触が原因なのかもしれません。ともあれ、時空をさまよった結果、ビリーは自分がどのように死ぬかを知ることになります。しかしビリーは死を回避しようとは思いません。どうやら宇宙人の運命論を受け入れたからのようで、幾度となく自分の死を体験することになります。少なくともビリーは自分の生涯を変えようとは思っていないことは間違いありません。

 

 ここまで考えて、この物語を考える上で重要な点が3つあることに気が付きました。それは

 

・ビリーは主観的に過去、現在、未来を行き来している

・ビリーの時空彷徨は自分の全生涯に限られている

・ビリーは自分の生涯を変えようと思っていない

 

 の3つです。これらを合わせますと、先の「そもそもビリーは本当に時空をさまよっているのか?」という疑問に対する、1つの回答が得られます。すなわち「ビリーは死の淵にいて、自分の人生を思い出し続けている」という解釈です。いわゆる死に際に見るという「走馬灯」です。この物語はビリーの走馬灯そのものではないか、と私は思うのです。つまり、

 

ビリーが様々な時代をさまようのは、死の淵にある彼の脳が様々な記憶をランダムに呼び起こしているから

・ビリーの時空彷徨が彼の生涯の中に限られているのは、時空彷徨が単なる彼の走馬灯に過ぎないから

・ビリーが自分の全生涯を知っていながら、それを変えようとしないのは、彼の生涯が終わろうとしているから

 

 全生涯が終わろうとしているビリーは、言うまでもなく「自分の生涯を全て眺めた」ことになります。この時点で別の選択肢いに思いを馳せても、それは甲斐のないことです。また、ビリーは第二次大戦中に空爆に巻き込まれ、戦後には墜落事故に巻き込まれ、最期は暗殺されるという、いわば「巻き込まれ続けた人生」であったと言えます。

 そうなると、たとえ宇宙人の話を聞かなくとも、自分の生涯を「どう行動しようと、この生涯になるべくしてなった」という運命論に結果論として行き着いても不思議はないように思えます。ですから、ビリーは自分の生涯を変えようとしませんし、彼の生涯は終わろうとしているので、実際に変えることも出来ないのです。

 

 しかしこの物語が「ビリーの走馬灯」であるとするならば、トラルファマドール星における宇宙人との交流はどういう意味を持つのでしょうか?ビリーは本当に宇宙人にアブダクションされたのでしょうか?私はそうは思いません。

 ビリーが死の淵にいて走馬灯を見ているのなら、それは自身の人生を評価し、総決算する時でもあります。巻き込まれ続けた人生を送ってきたビリーなら、先述のように「どう行動しようと、この生涯になるべくしてなった」という運命論に行き着くでしょう。しかしそのような結論を「能動的に」導くというのは、巻き込まれ続けた、つまり「受動的に」過ごしてきた彼の人生と矛盾してしまいます。

 そこで運命論も受動的に導いてくる必要があるのです。そこで登場するのが宇宙人の存在で、「宇宙人に連れ去られ、この宇宙の終わりを聞き、宇宙人から運命論を授かる」という、受動的な形で運命論に至れば、彼の受動的な人生と矛盾しなくなります。

 そもそもトラルファマドール星では、ビリーは何不自由なく暮らし、憧れの女優と蜜月の時を過ごすことが出来ました。それはビリーの願望そのままです。ならば、トラルファマドール星での出来事全てが彼の空想の産物であっても不思議ではなく、そこで語られる宇宙人の話も、実は彼自身の思想であっても不思議ではありません。つまり、宇宙人とはビリー自身であり、自分の人生を矛盾なく評価するために生み出されたものであると思われるのです。

 

 これがこの映画の非常に優れた点であると思います。結局この物語は、ほとんどはビリーが実際に歩んだ人生を提示していますが、トラルファマドール星での出来事だけはビリーの空想であると思われます。しかし物語の構成が時系列を無視した、ある種幻想的な構成であるために、トラルファマドール星の出来事も違和感がなく、真実であるように見えてしまうのです。

 そして人生とは何か、人間の意志とは何かを問いかけてきます。それは時系列通りに出来事を提示するよりも、遥かに効果的な方法で提示してきます。そして観客である私達は目まぐるしく時空に弄ばれるビリーに、やはり運命論的な思いを抱き、全てを見終わった後、ふと、自分自身について考えるのです。

 

 …とはいえ、これは私の解釈に過ぎません。全く的外れなことを書いているのかもしれません。しかしこのような構成の映画である以上、観客に相当量の余白を残していることは確かでしょう。ですから、この映画は見る人によって様々な解釈がなされるでしょうが、しかし「どの解釈が正しいか」なんてことは全く意味がありません。ただ、妙な手触りを残し、自分自身について考える入口を残していくだけなのです。

 

 

 ということで、色々と興味深い作品なので、みなさんもお時間があれば、一度ご覧いただきたいと思います。


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todome

過去のホームページ時代より寄稿させていただいておりましたが、とある作品を完結させぬままに十数年すっかり忘れ、この度親方の号令により、再び参加と相成りました、todomeと申します。 主に小話を寄稿させておりますが、マンガ、ゲームにつきましても、今後ご紹介させていただこうかと思っております。どうぞお付き合いください。

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