中島敦 「李陵・山月記」

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 今回ご紹介する作品は、戦前日本の夭折の文学作家、中島敦「李陵・山月記」であります。普段はSFばっかし読んでいる私ですが、むかしむかし、大正、昭和初期の日本文学も大好きです。特に内田百閒の随筆は今読んでも爆笑ものですし、夏目漱石の「猫」は本当にくだらないバカ話でして、しかも洗練された教養に裏打ちされたバカさ加減なのでタチが悪い。どこかタモリ倶楽部に通じる匂いを感じてしまい、結果、むかしむかしの作品ばかり読むようになり、次第に最近の日本作品は全く分からなくなり、芥川賞などどうでもよくなりました。

 とはいえ、ただ面白いから読んでいるだけなので、当然大正、昭和の日本文学の歴史を詳しく知っているわけではなく、全くの行き当たりばったりで読み散らかしているので、今回ご紹介する中島敦も、日本文学を読む人間なら知っていて当然らしいのですが、かくいう通りのボンクラですので、全く知りませんでした。

 ならば、どうやって知ったのか。なに、例の熱帯雨林?いえいえ、今回はとあるブログで紹介されていたのを読み、「これは相当面白そうだ」とカンタンに飛び付き、読んでみたら、アラアラコイツはステキに面白いや、というわけなのです。今回も行き当たりばったりですね。ともあれ、内容のご紹介に移りましょう。なお、中島敦がどういう人なのかは、こういうボンクラに尋ねるだけ無駄ですので、ネット上の奇特な方にお尋ねください(丸投げ)

 

 本作は短編集で、「山月記」、「名人伝」、「弟子」、「李陵」の4つのお話が収録されています。ここでそれぞれの簡単なあらすじをご紹介しましょう。なお、全てのお話は中国が舞台であり、登場人物の名前はむつかしい漢字で、環境によっては文字化けする恐れがありましたので、全てカタカナとさせていただきました。

 

 

・山月記

 中国の西の地方にリチョウという天才がいた。リチョウはその能力から政府高官に抜擢されたが、すぐに辞め、詩の世界に没頭した。しかしなかなか世間に認められず、仕方なく地方の役人になった。ところがかつての同僚はとてつもなく偉くなっており、その下で働かなくてはならなかったリチョウの自尊心は深く傷つき、遂には発狂し、山野へと姿を消す。

 時は流れ、役人のエンサンは用事のために山を越えようとするが、地元の人間の話によれば凶暴な人食い虎が出るという。急ぎの旅であったため、エンサンはそのまま山に向かう。すると草むらから巨大な虎が躍り出た。あわや噛み殺されると思った瞬間、虎は身をひるがえして草むらに潜った。そして「危ないところだった…。」という人の声が聞こえてきた。

 

・名人伝

 中国北西部に住むキショウは天下一の弓の名手となるべく、百歩離れた柳の葉をも射抜くという名人、ヒエイの元を訪れる。ヒエイは目の訓練が大事であるとして、瞬きをしないようになれ、と課題を出す。早速キショウは家に帰り、妻の操る機織り機の下に潜り込む。無数の糸が上下する真下で、瞬きを我慢しようというのである。2年の歳月の果て、ついにキショウは瞬きを克服する。

 ヒエイは次いで、小さなものが大きく見えるようになれ、と課題を出す。キショウはシラミを一匹捕まえ、それをじっと見つめ続ける。やがてシラミが大きく見え始め、ついには馬ほどの大きさに見えるようになった。ここにきて、ヒエイはようやくその奥義をキショウに伝授するが、しかしここでキショウの胸の内に、良からぬ考えが浮かび上がってきた。

 

・弟子

 中国北東部に、暴れん坊のシロが住んでいた。シロは最近賢人と噂高いコウキュウ(孔子)の話を聞き、どうせインチキ学者に決まっていると、敢えてバンカラな出で立ちでコウキュウを訪ねる。しかしコウキュウを一目見たシロは、その人物の大きさに圧倒され、一方のコウキュウもシロの精悍な顔つきの中に少年のような素直さを見出していた。

 しばらく議論を続けるも、シロはとうとう言葉に詰まる。そして即座にひれ伏して、コウキュウに教えを請うのであった。こうしてシロはコウキュウの弟子となり、後に孔門の十哲と謳われるほどの人物となるのだが、それはまだ先の話。血気盛んな快男児、シロはコウキュウと共に諸国を渡り歩く。

 

・李陵

 漢の時代、毎年秋になると、匈奴と呼ばれる略奪者が国の北部を襲っていた。これを討伐するよう命じられたリリョウは果敢に匈奴を蹴散らすが、しかし圧倒的な戦力差の前に敗れ、捕らえられてしまう。漢の武帝はリリョウが裏切ったのではないかと疑い、一族を根絶やしにするよう命じる。

 臣下たちは口をそろえてリリョウの悪口を言い、武帝の機嫌を取ろうとする。そんな中、ひとり歴史家のシバセンはリリョウの武人としての功績を称えたが、分不相応と言いがかりをつけられ、死よりも辛い刑罰に処せられる。絶望したシバセンは発狂寸前まで追い詰められるが、唯一彼を正気に引き留める物があった。

 一方、匈奴の捕虜となったリリョウは匈奴の王と親しくなり、時同じくして一族が絶やされたことを聞き、漢に戻る気が失せてしまう。しかし同じく捕虜であるソブに出会い、彼が匈奴になびくことなく、ひたすら祖国である漢に帰ることだけを考えていることを知り、リリョウは己の人間としての器に疑念を抱き始めた。

 

 

 どのお話もなんだかページ数が多い、長そうな印象を受けたのではないでしょうか。しかしご安心ください、これは「短編集」です。「山月記」、「名人伝」はわずか10ページそこそこ、「弟子」は50ページ、「李陵」は70ページ足らずと、ちっとも長くありません。しかし枚数は少ないながらも、非常に濃い内容となっています。

 内容が濃いと言いますと、大抵は描写が細かいとか、構造が複雑であるとか考えがちですが、本作はどちらにも当てはまらず、むしろ簡潔な文章であると言えます。実際、作中の登場人物の行動や言動は、短い文章で綴られているのです。

 しかし簡潔であるにも関わらず、非常に切れ味の鋭い文章なのです。特に登場人物の苦悩や決意といった、心理や情動、すなわち「血潮」を強く感じさせる文章は非常に印象的で、思わず読み手は共感してしまいます。これは驚くべき筆致であり、以前ご紹介した「エドウィン・マルハウス」のように言葉を重ねる手法とは真逆のアプローチだと言えます。

 結局、内容の濃さというのは費やした文字の数ではなく、「いかにその情景に適した言葉を使うことが出来るか」ということに掛かっているということであり、つまりは語彙力の問題であると言え、本作はその証左と言えるでしょう。

 実際、本作では現在ではあまり使われなくなった言葉が多く登場します。ひとつひとつ辞書で調べるのは手間が掛かりますが、しかしその言葉の意味を把握しますと、もはやその言葉を使うことは必然、それ以外に有り得ない最適な言葉の選択をしていることが分かります。

 と同時に、その情景が恐ろしいほどに色彩を帯び、加えて瑞々しいまでの躍動感も感じることが出来るのです。結果、読み手は実際の文字数以上の情景を読み取ることになり、これが本作の内容の濃さに繋がっているのです。これこそが語彙力の霊験、まさに「言霊」であると言えるでしょう。

 

 そしてもちろん、お話の内容自体が非常に面白いという点も優れています。どのお話も原典は中国の古典なのですが、それを上手く翻案し、小説としての起承転結、つまり盛り上がりを演出しており、読み手を飽きさせません。

 ただ、問題は先にも述べましたが、現在では馴染みのない言葉が使われているという点です。しかし巻末に注釈が設けられていますので、少々手間でも本文と注釈を行き来するか、辞書で調べることをお勧めします。このような中断が読書のリズムを妨げることを危惧される方もおられるでしょうが、しかし本作の文章が紡ぐリズムは、その程度では決して絶たれません。それどころか、忘れ去られた日本語の美しさと迫力を再発見することに繋がると思います。

 

 

 現在は紙媒体、電子書籍のいずれでも容易に入手出来ます。しかもお手頃価格です。こちらの熱帯雨林で詳細を確認出来ますが、多分どこの書店でも手に入りますので、是非入手して一読していただければ幸いであります。


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todome

過去のホームページ時代より寄稿させていただいておりましたが、とある作品を完結させぬままに十数年すっかり忘れ、この度親方の号令により、再び参加と相成りました、todomeと申します。 主に小話を寄稿させておりますが、マンガ、ゲームにつきましても、今後ご紹介させていただこうかと思っております。どうぞお付き合いください。

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