四コママンガ界の哲学者で唯物論者でダンテで神曲地獄編な小坂先生の(意味不明)痛快なりゆき時代劇夫婦メシ漫才こと「新婚よそじのメシ事情」の二巻、いや、巻ノ弐が発売されました!やった!と言っても、そこは人生周回遅れの私のことです、本作の発売は実に一カ月くらい前でありまして、今更今頃な感想雑記であります。
さて、しかしながら、もしかしてひょっとして、本作の第一巻の事をまるで知らないウブなあんちくしょうもおられるでしょうから、ここで「新婚よそじのメシ事情(以下「よそメシ」)」とはなんぞやを簡単にご紹介いたしましょう。
上京以来、ひとり暮らし在宅自由業(つまりマンガ家)を営んできた小坂先生。野郎の独身生活をいいことに好き放題な食事を営んできた結果、あるいは締切に追われて食事をないがしろにした結果、小坂先生の食生活はただれにただれてしまいました。
それがなんということでしょう、小坂先生はうっかり同じくマンガ家の王嶋環嬢と結婚してしまいました(無礼)。奥様のおかげで食生活、いや食文化レベルは人並み、いやいや人も羨むレベルにまでなってしまいました。
これまでいわば最底辺の食生活を送ってきた小坂先生(失礼)。奥様の作る料理に感激しつつも、しかし独身時代のただれた食事にも心惹かれ、また各家庭の食文化の著しい違いに唸り、狼狽し、完敗を喫する小坂先生。そして見えてくる、奥様のちょっと偏った食へのこだわりがチラチラ。
これは全く異なる食習慣を持った夫婦が、あーでもないこーでもないと毎日の夕餉で七転八倒するゆるいギャグ漫画、あるいは幸せな夫婦の物語である。
ということで、本編では大体「奥様の豊かな食歴史(という日本語は正しいのかしら)」と「小坂先生の実に残念な食歴史」の対比がメインで、具体的には、
「奥様がウマイもんを作る」→「小坂先生が衝撃を受ける(主に「こんなウマイものがあったのか」)」→「小坂先生、己の来し方に思いを馳せる(主に「オレのこれまでの食生活っていったい…)」
あるいは、
「奥様がウマいもんを作る」→「小坂先生が首を傾げる(「そんな食い方があるの?」とか「そんな食い物があるの?」)」→「夫婦激論」→「小坂先生の負け」→「小坂先生、己の行く末に思いを馳せる(主に「オレのこれからの食生活はいったい…)」
という流れでありまして、互いに互いを呆れ返っております。奥様は小坂先生を「ジャンクだ!」と思い、小坂先生は奥様を「なんて手間暇をかけるんだ、エライッ!」と思い、…つまりは小坂先生の負けなんです。
そもそも小坂先生は奥ゆかしい方なのか、それとも単にちょっとネガティブな方なのか、とにかく「人様に迷惑をかけること」を嫌います(出前は「持ってきてくれるのが申し訳なくて出来ない」らしい)。それはメシを作ってくれる奥様に対しても例外ではなく、「オレなんかのためにメシを作ってくれた…!」と感謝というよりも罪悪感に近い感情を抱いているのです。
正直、メシを作るたびに罪悪感を抱かれてはたまったものではありませんが、しかし、人間誰しも大好きな人を大切に思い、困った顔など見たくはありません。小坂先生も同じことで、ただただ奥様のことを愛していて、それがちょっと過度に申し訳なく感じてしまっているのです。
これだけだと小坂先生の自虐マンガですが、そこへ二人の歩み寄りが加わります。互いの食文化を理解し、「あ、これ結構美味しいね」と互いを認め合うのです。
これらのやりとりを通じて、いかに各家庭における食文化に違いがあるのか、そしていかに各々には食に対するこだわりがあるのかを読者に示してくれたのが第一巻でありました。
さて、待望の第二巻ですが(ようやく本題)、この「夫婦の食歴史の対比」がさらに明確になり、つまり奥様の食歴史は「日本人ならかくあるべき、四季折々の味を楽しむ」という「え?究極(至高)のメニュー?」的なフクザツな代物であるのに対し、小坂先生のは「好きなものだけ腹いっぱい、もうそれだけ食いたい」という「小中学生男子の食生活」的なシンプルな代物であることがキワキワに際立っております。
で、結局毎度おなじみ小坂先生の「オレってヤツァ…」となるのですが、しかし第二巻ではそれ以上に、二人の歩み寄りがより顕著に描かれています。小坂先生は奥様の実家の「あるジャンクな料理」に感激し、奥様は小坂先生の大好物である「男前な料理」に舌鼓を打つ。そんな場面が二巻には多かったように思えます。恐らく結婚生活がある程度経過し、お互いの存在が自然になってきたが故に、自分の守備範囲から一歩足を出してみる余裕が出来たのでしょう。
そもそも奥様サイドの「手を掛けた料理」も小坂先生サイドの「カンタンジャンクな料理」も、ぶっちゃけどちらもウマイのです。どちらが優れているとか高級だとか人としてちゃんしてるとか、そんなものは所詮人間の頭の中にしかないもので、舌の上ではどちらも等しくウマイのです。
「味覚は才能である以前に、学習である」という言葉があります。繊細な味や香辛料の奥の旨味を感じ取るのは天賦の才ではなく、どれだけその味を体験してきたかによるわけで、結局、奥様は「こーいうものを食べてきました」であり、小坂先生は「こーんなものを食ってきました」ということに過ぎず、そこに貴賤はないのです。
それでなくとも人間の口はひとつしかなく、世の中の森羅万象、全ての食べ物を口にすることは出来ませんから、その人その人の食歴史、つまり味覚の学習範囲は偏っても不思議ではないと言えましょう。
つまり小坂先生と奥様の学習範囲があまりにもかけ離れているためにギャップ起こっているわけで、それを結婚生活を通して相手から新たな味覚を学習するという内容なわけです。これは「ウマイ」というものには、あるいは「マズイ」というものには実に多種多様な形があることを、夫婦にとって最も身近な他人「夫」や「妻」から身を持って学習していると言えましょう。
このような学習は本能に訴えかける体験と言えますから、その点が傍から見ている読者にも新鮮な驚きとして伝わります。恐らくこれこそが「新婚メシ事情」たる由縁であり、しかしここに小坂先生の卑屈さ(褒めてますよ)が加わることで、「よそじ」感がいかんなく発揮され、いわゆる「家庭料理もの」とは全く味わいの違う作品になっていると思うのです。この点が前面に出てきた巻ノ弐は「いよいよ本題」ってな感じでしょう。
そんなわけで「よそメシ」巻ノ弐は一巻以上に「食うとはなにか」を感じさせる内容でありました。…まあ、こんなコムズカシイこと考えなくても、フツーに面白くて、フツーに夫婦仲の良さに和むんですけどね。あと、決してリアルではないくせに、小坂先生の描くメシはウマそうです。今回は焼鳥丼がウマそうでした。メシがウマそうなマンガは良いマンガなのです。
てなことで、オススメです。
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