今回は久しぶりに小説のお話をしましょう。お題は超有名どころのディックの「ヴァリス」でありまして、先日ようやく読み終わりましたので(実に5回目の読み直しでありました)、私なりの雑感をお話したいと思います。
さて本題に入る前におことわりを。この作品は、何と言うか、構造が(ボンクラな私にとっては)しっちゃかめっちゃかでありまして、そのせいなのかネット上には様々な解釈が存在しております。しかしどれが正しいとか、どれが間違ってるとかは問題ではなく、恐らく読み手によって解釈が相当異なるという点こそが、本作の真骨頂のように思えます。
ですからここに記す私の解釈、というか簡単な雑感も、それら無限のうちのひとつに過ぎないことをご了承願えれば、と思います。それでは本作のあらすじをカンタンにお話しいたしましょう。
主人公ファットはクスリと神経症によってボロボロであったところへ、友人の自殺を知るや本格的におかしくなる。幻覚と焦燥に悩まされるある日、謎のピンク色の物体から光線を浴びせられる。この光線によってファットは大量の情報を脳内に注ぎ込まれたと感じ、その中には息子の病気に関する情報も含まれていた。半信半疑ながら息子を医者にみせると、果たして光線によって得られた情報は真実であり、息子は完治するに至った。
ファットはこの光線の正体を探るべく、様々な宗教書を読み漁り、ついには独自の宗教を築き上げる。偏執的とも言える教義が無限にを積み上げられる毎日であったが、ある日街で「ヴァリス」なる映画を見るや、それが自分の体験や教義をそのままであることに驚愕する。ファットはこの映画を作った人間に会いに行き、ついに自分を救ってくれる人物に出会うのだが…。
一読してみて、この物語の急所と思われる点は「光線」なのですが、しかし本編ではついにこの光線の正体は明かされません。いや、一応「ヴァリス」と呼ばれる「生きた情報体」からの出力であるとされてはいるのですが、冒頭でファットは狂ってしまっているので、これが真実である保証は何一つないのです。
対してファットによる「光線とは一体何なのか」については相当のページ数を割いて記述されています。正直この部分のを完全に理解出来る読者は作者であるディック以外に存在しないと思われますが、少なくとも「ファットが解釈を捻りだした」という行為は真実であると言えます。ですからここで重要なのは「光線の正体」ではなく、「光線の解釈」であると思えるのです。
しかし、そもそも理解を越えた事象を理解出来る形に書き下すという行為には無理があります。何故なら理解出来ない事象はそれを記述するための記号、すなわち言語が存在しないので、それを操作して思考する際に客観性を維持することが出来ません。つまり「客観的に納得出来る形」ではなく、「主観的に納得出来る形」、言い換えれば「自分なりに分かるようにした形」にならざるを得ないように思えます。
例えば空飛ぶ円盤はよく「葉巻型」や「お椀型」などと表現されますが、しかしそれは私達が良く知る物体の中で一番似通った形を選び出しているだけで、空飛ぶ円盤そのものが「葉巻型」である証拠にはならないのです。
そして「自分なりに分かるようにした形」というのは、得てして「自分に都合よく翻訳した内容」になりがちであると言えます。先の円盤の例で言いますと、オカルトを信じる人であればそのまま空飛ぶ円盤であると捉えるでしょうが、オカルトを信じない人であれば円盤を「大きな鳥」と捉えるでしょう。オカルトを信じない人にとって、空飛ぶ円盤はオカルトを肯定してしまう、自分にとって都合の悪い存在だからです。
都合のよい解釈を推し進めるとどうなるかと言えば、例外が際限なく生まれてしまうのです。するとその例外を解釈するために、自分の都合が許す範囲で解釈にも例外を設けます。科学万能を信じる人が不可解な現象を説明するために、いつしか疑似科学的説明に陥ってしまうのもその一例です。しかし先述のように例外は際限なく生まれますから、解釈の例外も際限なく増えていきます。そう、ファットの教義が無限に膨らみ続けたように。それは解釈ではなく、説明のための説明に過ぎないと言えます。
このような「都合のよさへの志向」は、何も理解を越えた事象だけでなく、単純に自分と同調する意見や、対立する意見に出会った時も引き起こされると言えます。つまり自分の意見が守られるような意見や情報を無意識のうちに選択しているとも言えると思います。
ファットが見た映画「ヴァリス」もそもそもは凡庸なSF映画であり、そこにファットが自分にとって都合の良い情報の断片を見出し、解釈した、とも取れるのです。逆にファットは自分の構築した教義をバカにする人間に対しては烈火の如く怒り狂い、反論します。
私達は何か情報に出会った時、その情報そのものを理解せず、自分の意見が守られるように曲解していないでしょうか?自分に都合の良い部分だけ選び出したり、逆に都合の悪い部分は無視していないでしょうか?
恐らく、人間ならばそのような曲解は避けられず、時として「偏見」や「先入観」として現れるのでしょう。現代におけるネット社会のような様々な価値観に基づいた膨大な情報の渦の中では、全くの公平な目をもって情報を判断することは、ひょっとすると不可能なのかもしれません。それは情報を発信する人物に対しても同じことで、自分の意見を肯定するような人ばかりと交流を持とうとしてはいないでしょうか。現在のSNSはまさにもってこいの場と言えるでしょう。
さて、本編はファットが救済者に出会った後も続いていきますが、正直私の目からは「ファットは自分が見たいものだけを見続けました」のように映りました。友人の自殺といい、見たくないものを見続けたファットにとっては仕方のないことかもしれませんが、しかしそれが誰にでも起こり得ること、今まさに私達に起こっていることでもあるように思えて、少々ゾッとしたのであります。
冒頭でお話しましたように、本作の解釈は様々あるのですが、そのさまざまの原因もこのような曲解から来ているのかもしれません。事実、私個人の雑感でもこんなに訳の分からない内容になってしまいます。しかしそれでも一度は読んでいただき、考えていただければ、と思います。
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