先日のことです。例の如く某熱帯雨林をうろついていた私は、いつものように大企業の思惑にズッポリはまり、つまりはオススメを眺めていました。この「オススメ」で結構な数の本を買ってしまい、しかもまるでハズレがありませんから、いよいよ私は熱帯雨林から出られないわけです(回し者じゃないですよ)。
さてそのオススメの中に、昔好きだった作品が挙げられていました。しかし、はて、この本はかれこれ20年も前、20世紀に読んだ本であります。それがどうして今、超高層建築に移動チューブが張り巡らされた21世紀にオススメされるのでしょう。さては熱帯雨林め、私が勧められるままに購入することをいいことに、どこかで私の過去の記録を、いや、PCを通して私の脳内の記憶を覗いたに違いない!だって時代はIoTだし!(間違った認識)
…寝言はさておき、実際は新装版(正確には自選集)がリリースされたようで、それが引っ掛かってきただけでした。で、懐かしついでに今回ご紹介させていただこうと思い立ったわけであります。それでは内容を簡単にお話ししましょう。
時は1980年後半、主人公コースケは東京の下町の、古いアパートに住んでいます。6畳台所付きの部屋ですが、家具はコタツしかありません。そして彼は押し入れにしまってある本を読むか、図書館で本を読むか、町中を散歩するか、大家さんのお使いをしているかして過ごしています。そう、彼は定職に就いておらず、時折アルバイトで家賃と生活費を稼ぐだけ。時折訪れる恋人のひろ子さんや隣の住む学生さん、それに近所の人達とともに、コースケはのんびり暮らしているのです。
ということで、コースケは定職に就いていないため、基本的に金欠でビンボーです。その代わり、ありあまるほどの自由な時間があります。この作品は(タイトルには「マニュアル」とありますが、それは最初の数話だけです)コースケのビンボーだけれども、穏やかで、ささやかな幸せを描いているのです。
基本的にコースケは自室でぼんやりしています。そして押し入れの中の蔵書を引っ張り出し、何度も読み返したであろうその本を、また読み返すのです。そして時折聞こえる外の音や天候の変化に、あるいは季節の移ろいや近所の人達の生活に思いを馳せます。しかしそれは詩人のそれや哲学的なものではなく、ただ「あぁ、そんな季節なのか」と思うだけです。
たまにコースケは外に出かけます。多くの場合は散策で、街並みや行き交う人々、河川敷の景色や空の色を眺め、季節によっては深夜まっさらに積もった雪の感触を確かめ、木枯らしの寒さに身を縮めて鼻水をたらします。これらに対してもコースケはやはり哲学的ではなく、ただ空の色や雪の感触そのものを味わうだけです。
コースケの部屋を訪れる人もいます。先述の恋人のひろ子さんはその一人です。彼女はゲージツ家志望ですが、他に仕事をしているようです。しかし世の中の喧騒に疲れるとコースケを訪ね、ご飯を食べたり、喫茶店に出かけてお茶を飲んだりして過ごします。
コースケとひろ子さんの間には、会話らしい会話はありません。他愛のない世間話や近況などは話をしますが、いつしか何かにぼんやりと思いを馳せるコースケを、眺めるとはなしにひろ子さんは見つめています。コースケがお気に入りの本を手に入れて撫でている時も、「今日はいつにもましてボンヤリしているわね」と見守るのです。
隣の学生さんとは頻繁に交流しています。いや、交流と言って良いものか、基本的にコースケが隣の学生さんに何かを借りに行くことが多いのです。何しろコースケの部屋にはコタツしかありません。調理器具もあやしいのです。ですからコースケは何か料理をしようと思い立つと、まず隣の学生さんから調理器具を借りるところから始まるのです。
実はコースケは隣の学生さんから自転車を借りたり、定期券を借りたりと、結構色々借りています。対してコースケは特に隣の学生さんに物を貸していません(そもそも貸せるほど物をもっていないのですが)。ですからコースケ曰く「自分はテイクアンドテイク、隣の学生さんはギブアンドギブ、併せてギブアンドテイク」の関係というわけなのです。
この他、先述のようにアパートの大家さんや近所のおばあさん(パチンコ好き)、町医者の爺さまや浪人生、その他様々な人と関わりながら、コースケはビンボー生活を送っています。しかしそこにはビンボーゆえの辛さは感じられず、ただただ穏やかな生活としか感じられません。
もうお分かりかと思いますが、それはコースケは多くの人から助けられている、つまり孤独ではないからです。それというのも、コースケが人好きのする存在だからに他なりません。ついつい助けたくなる人柄なのでしょう。ではコースケは何故人好きのする存在なのかと言われれば、特に作中ではこれという理由は見られませんが、あえて挙げるなら「人の頼みを断らない」という点かもしれません。
例えばある朝、コースケは町医者の爺さまに呼び止められます。何事かと案内されると、そこは壮大に散らかった倉庫、というか魔窟。爺さまはコースケに片づけを頼んで、そのまま診療に向かってしまいます。コースケは黙々と片づけをし、すっかりキレイになった頃には夕方になっていました。そして爺さまはお礼にコースケの健康診断を買って出るのです。
また昔バイトしていたカツ丼屋に行くと、顔なじみだからか、突然出前を頼まれてしまいます。しかしバイト経験者であるコースケは慌てることなく、スイスイと出前をこなしてしまいます。そして帰ってみるとカツ丼が出来上がっていて、バイト代代わりにご馳走になるのです。
また、これは厳密には頼まれたわけではないのですが、コースケは隣の学生さんが酔った勢いで持って来てしまった工事現場のシマシマのハードルみたいなヤツを返しに行っています。コースケはどこにあったのかを聞き出し、帰ってくると隣の学生さんはコースケの布団で寝てしまっており、仕方なくコースケは学生さんの部屋で寝るのです。
恐らくこのような積み重ねがコースケの人好きのする人柄、つまり信頼に繋がっているのでしょう。その信頼を足場に、今日もコースケはのんびりと暮らし、人と季節を楽しんでいくのです。その静かな生活は、とかく効率と時間に追われ、むやみに個人の権利を主張しがちな現代の私達には決して真似出来るものではなく、だからこそ、とても贅沢に見えます。
何故なら人との交流や季節を感じることは、自分という存在の小ささを感じることであり、ひいては世界という複雑で大きな流れを直観することだからです。書物やネットで得た知識で世界を捉えるのではなく、感覚として世界の大きさを感じ、その流れを感じることは、自分が非常に大きなものの中にいることを自覚することであり、それはその人にとってとてつもない安定感、安心感を与えることでしょう。
人は生きていくのに、何かしらの支えを必要とします。それは友人であったり、恋人であったり、子供であったり、あるいは金銭であったり、地位や名誉であったり、哲学や思想であったりします。それら全てである世界に自分が抱かれていると感じるのですから、その人は「世界全てに支えられている」という感覚を得るのです。これこそ「生かされている」という感覚であり、実際コースケはそのような生活をしているのですから、実に愉快としか言いようがありません。
さて、今回この作品をご紹介するにあたり、ちょっと驚いたことがありました。
検索エンジンでこの作品を検索しますと、いやぁ、オートコンプリートにはなかなかヒドイ単語が出てきます。どうやら最低限しか働かないコースケや、隣の学生さんから物を借りてばかりの生活スタイル、コースケに手伝いをさせてばかりいる街の人、牛丼屋で紅ショウガを山盛りにしてお茶漬けにして食べるコースケなど、総じて「厚かましさ」に嫌悪感を感じる方が多いようです。
なるほど、確かに人から物を借りてばかりいたり、近所の人からやたらと手伝いを頼まれたりするのは嫌かもしれません。しかしここで注意していただきたいのは、物語の舞台が1980年代後半だということです。
この時代はバブル景気で、求人は完全に売り手市場でした。仕事はいくらでもあり、アルバイトだけで食べていけるほどで、ちょうどこの頃に「フリーター」という言葉が生まれます。ですから当時コースケのような労働スタイルの人は少なからずいたのです。
そしてこの頃は「近所付き合い」がまだ盛んだった時代でもあります。隣近所の垣根が低く、何でも(それこそ調味料まで)貸し借りしていた時代です。また町内会総出の清掃活動など、労働力の貸し借りも普通に行われていた時代でもあります。
そのような時代の物語ですから、嫌悪感を抱かれる多くの方が感じる「厚かましさ」は、実は当時の当たり前だったということを念頭に置かなければなりません。このような「時代背景を考慮すること」について、今1つ例を挙げてみます。
以前、某新聞の書評欄で内田百閒の随筆「ノラや」について、一般読者が感想を述べるという企画がありました。この作品は百閒先生が野良から飼いだした「ノラ」という名の猫が行方不明になり、心配になった先生がオロオロと取り乱し、しまいには夕飯も喉を通らず泣き出してしまう、という内容です。
さてこの内容に対し、ある読者の方は「先生は心配しているクセに家で座っているだけで、ノラ探しは奥さんやお手伝いさんに任せてしまって腹が立つ」という意見を述べました。確かに、現代だったら「お前も探せよ」と考えるでしょうが、しかし当時は家長制度の真っ只中で、「家長は家を守り、どっしりと構えるもの」という考えが主流でしたから、ホイホイと百閒先生自ら探しに行くなど考えられなかったのです。
さらに言えば、そんな「どっしり構える」べき家長なのに、夕飯のおかずを見て、「あぁ、ノラもコレが好きだったな…。」と思い出して泣いてしまうというところが、この作品のチャーミングなところなのです。
ですから過去に出版された作品を読む時は、当時の時代背景も考慮した方がより楽しめる場合が多々あるもので、それは随筆に限らず、マンガや映画でも言えることです。逆に、過去の作品を読むことで「現代にはなくなってしまったもの」が浮かび上がってくることにもありますので、なかなか面白いものです。
とはいえ、さすがに私も「紅ショウガお茶漬け」は「おいおい」と思いましたが、しかし、まさか、この描写を額面通りに受け取る人はいないと思ってました。作中、そのような食べ方をするコースケを他の客達はボーゼンと奇異の目で見るのですが、その客たちの視線から、明らかにこれはギャグであることが分かり、マンガや劇でよくある誇張でしかありません。ですから先の私の「おいおい」もニヤニヤ笑いながら呟いたものでした。同様に何でも隣の学生さんに借りてしまうのもギャグであり、いわゆる「お約束」なのです。
…と、まぁ、いやぁ、今回は時代の流れを感じましたねぇ(いろんな意味で)。私もおっさんになるわけですよ。それはさておき、非常に牧歌的で、のんびりと楽しめる作品です。現在は書籍版だけ流通しているようなので、お時間があれば是非一読していただきたいと思います。
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