旅の果て 第一回

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 恐ろしく暑かった、あの日。大量の汗をかきながら、私は街の中心部へ向けて車を走らせていた。一つ、二つと角を曲がり、大通りに出た、その瞬間、視界の端から大きな物が飛び出してきた。そして、私の記憶はそこで止まっている。あれからどうなったのか、私には分からない。ただ、それが全てのきっかけだったことは理解している。  目を開くと、そこには細かく木目が走った天井が見えた。最初はぼんやりとそれを見つめていたが、しかし、あんな天井は見たことがなかった。次第に意識ははっきりしてきて、 いつものように疑問が浮かんだ。  今度は、どこの、誰だろう。  身体を起こそうとする。しかし何だか身体全体がだるい。無理をして起き上がり、辺りを見回す。布団、障子、畳。典型的な和室だった。外からは蝉の鳴き声が聞こえてくる。どうやら、今回は日本らしい。これまでのことから考えて、私は少しだけ安心した。  その時、後ろに伸ばした手が、かたん、と何かにぶつかった。目をやると、そこには朱色の盆と、小さな水差しと、薬の包みが置かれていた。  急に喉の乾きを覚えた私は、たちまち水差しを空にした。ふう、と一息吐くと、音もなく障子が開かれた。薄暗かった部屋の中に光が差し込む。 「具合はどう?」  優しげなその声に顔を上げると、そこには綿シャツの女性が、私を見下ろしていた。  知らない女性。私は敢えて応えなかった。彼女は私の傍らに座ると、
眩しそうに目を細めて外を眺めた。 「今日も暑くなりそうね。」 「うん。」  実際、湿気を帯びた、粘りつくような暑さだった。額や首筋に汗が滲み出しているのを感じ、私は無意識にそれを拭う。それに気づいて、彼女は袂から手拭いを取り出し、私の汗を拭き取ってくれた。それから部屋の隅へと移動し、置いてあった団扇を取ると、また私の脇に座って、緩やかに扇ぎ始める。生ぬるいが、心地よい風が、私の頬を撫でていく。 「もうすぐお昼だけど、どうする?」  そう言われて、私は急に空腹を感じ、無言で頷いた。彼女はにこりと微笑み、 「暑いから、そうめんにするからね。」  そう言うと、団扇を置き、水差しが空なのに気が付くと、それを拾い上げて、また静かに部屋を去っていった。私は団扇を拾い上げて、何するわけでもなく、骨の部分を指でなぞった。そしてぼんやりと思い出した。  あの後、目の前が真っ暗になったが、意識だけはあった。軽い耳鳴りがしばらく続き、やがて暗闇の中に光が見えた。光はやがてぼんやりとした球体になり、私を包み込んだ。球体はちょうど銀河のように、小さな光の集合で、私はその間を滑るように漂う。そのうちの一つ、オレンジ色の光が、私に近づいてきた。しかしそれは次第に大きくなり、実際は私の方が光へと近づいている。不安になった私は抵抗しようとしたが、その甲斐もなく、私は光の中に飲み込まれ、再び辺りは暗闇に包まれた。  気が付くと、私は横になっていた。相変わらず暗闇であったが、瞼が閉じていることに気付くと、私は恐る恐る目を開いた。そこには灰色の見たことのない天井が広がっていた。驚いた私は身体を起こし、辺りを見回す。そして息を飲んだ。  狭い部屋。低い天井。あちこちへと伸びた梁。私は木製のベッドに寝ていて、枕元には小さなランプが灯っている。ベッドの横には小さな机があり、本が開かれていた。覗き込んでみると、滑らかな線が延々と記されている。ようやくそれがアルファベットであることに気付いた時、どんどん、と物を叩く音が聞こえた。そちらへと目をやると、そこにはやはり木製の分厚そうなドアがあった。  私は躊躇しながらも近づき、ドアを開けた。そこには金髪の女性が立っていた。  だから私は思った。ここはどこだろう、と。  今日は一緒に市場に行く約束だ、と彼女は言った。知らない言葉なのに、何故からそう理解できた。その事実に私は驚いたが、それを味わう暇もなく、私は彼女に連れられるまま、町へと向かった。そして様々な物を見て、その度に驚いた。  夜、ようやく落ち着いた私は、これまでのことをまとめてみた。まず、日本ではないことは理解できた。現代ではないことも理解できた。そして私は私ではない誰かであるということも、何とか、理解できた。  つまり私は、違う国で、違う時代で、違う人になっていたのだ。  問題は一つだけ。何故こんなことになってしまったのか、ということだ。それが何よりも私を不安にさせた。私はこのまま誰だか分からない、「誰か」になって生きていかなくてはならないのだろうか。私はもう、私には戻れないのだろうか。  考えても考えても、分かるわけもなかった。一日が過ぎ、三日が過ぎ、六日も過ぎると、私はすっかり諦めてしまっていた。多分このまま、私はここで生きていくのだろう、と。  しかし一週間目の夜。再び異変が起こった。  もはやここで生きていくことを覚悟した瞬間、強烈な目眩が私を襲った。立つこともままならず、私はその場に崩れ落ちた。そして目の前が暗くなり、再び光が見えた。そして気が付くと、私はあの時の銀河の中にいた。後ろを見ると、あの時飲み込まれたオレンジ色の光が見える。あの人物から脱出したらしい。何とも言えない安堵が訪れたが、しかしまた不安もあった。この光一つ一つか一人の人間であるのなら、元の私はどの光なのだろう。無数にある光の前で、私は呆然としていたが、再び引力を感じ、それに引かれるまま、私は次の光、緑色の光の中へと飲み込まれていった。  それからというもの、私は様々な人間になった。国も、時代も、性別も違う、数え切れない人々の、人生の一瞬を体験した。何人か体験して分かったことは、言葉に関しては心配のないこと、一週間前後で別の人へと切り替わること、そしてそれは目眩によって始まり、終わるということである。  私の主観的な時間では、もうかれこれ三年以上、他人の人生を生きている。しかし未だ私自身の人生に戻ることは出来ていない。果たしていつまでこのような漂流が続くのか。うんざりしながらも、反面、この旅を楽しんでいるのも事実である。  やがて先程の女性が、盆に器を乗せて持って戻ってきた。彼女はまた私の傍らに座り、私の目の高さまで下りてくると、器の中身は彼女の予告通り、そうめんだった。白い麺が水の中で泳ぎ、砕かれた氷が涼しげな雰囲気を漂わせる。  私は盆を彼女から受け取ると、夢中になってそうめんを啜りこんだ。冷たい喉越しと、鰹の風味が堪らなく、たちまち器は氷水だけになった。 「食欲があれば大丈夫。でも今日一日は寝てなさいね。」  彼女はまた微笑んで、私の額に手を当て、ゆっくりと私を横にした。しっとりとしたその手は暖かく、信じられないくらいに柔らかかった。私は思わずその手に触れる。  次第に瞼が重くなり、彼女が立ち上がる頃には夢うつつになっていた。そして障子が閉じられる瞬間に思った。彼女が多分、姉なのだ、と。  再び目が覚めると、私はすっかり元気になっていた。彼女が来る前に床を上げ、部屋から出る。縁側から見えた空は真っ青で、今日もうだるような暑さになりそうだった。軽く伸びをすると、腹がなった。結局昨日はそうめんだけしか食べていないのだから、当然である。勝手に何か食べても良かったが、何しろ家の造りが分からない。下手にうろついて怪しまれるのも嫌だったので、私は縁側に腰掛けて、ぼんやりと彼女を待った。  状況が分かるまで大人しくしたほうが良い。これまでに私が身に着けた教訓だった。  しばらく待つと、廊下の角から彼女が現れた。彼女は私の姿を見つけると、やはり優しい笑顔で私の横に座った。 「夏の風邪は辛いものでしょう?」 「うん。」 「夕立の後に、ちゃんと身体を拭かないからよ。」  ここで私は賭けに出た。 「うん、姉さんの言う通りだよ。」 「今度から気を付けるのよ。姉さん心配したんだから。」  やはり彼女は姉であった。私は少しだけ安心した。  姉から着替えを渡された。姉と同じ綿シャツに黒のズボンであった。それに着替えてから私は家の中を歩き回り、洗面所を見つけた。すぐに鏡を覗き込む。映し出された私は、予想以上に若かった。11、2歳というところだろうか。坊主頭で頬の赤い、若々しい少年であった。実際の私とは二回りも違う。不意に少年時代のことを思い出した。  洗面所を後にし、私はようやく自分の部屋を見つけた。三畳ほどの小さな部屋で、質素な勉強机には整然と教科書が並べられている。よく見るとその隙間には少年雑誌が差し込まれており、それが何とも微笑ましかった。机の反対側の壁にはカレンダーが吊るされていた。8月であるが、その年号に私は目を見張る。1956年。戦後復興期だ。  よく見るとカレンダーには様々な書き込みがあった。登校日、約束事など、机の様子といい、少年の几帳面な性格がうかがわれる。と、8月の最終週の書き込みに目が留まった。  そして今回は1956年8月の日本、とある少年の人生を体験しているのである。  8月27日。その日には赤字で印があった。そしてその下にはこう、書かれていた。 『朝子姉さん・誕生日』  姉の名前は朝子というらしい。それが私には引っかかった。朝子という名前は、何故か私に強烈な印象を与えているのだ。かつて私が私だった頃、朝子という名前には何か特別な想いがあったような気がする。それは一体何だっただろうか‥。  しばらくの間、私はその場に佇んでいた。

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todome

過去のホームページ時代より寄稿させていただいておりましたが、とある作品を完結させぬままに十数年すっかり忘れ、この度親方の号令により、再び参加と相成りました、todomeと申します。 主に小話を寄稿させておりますが、マンガ、ゲームにつきましても、今後ご紹介させていただこうかと思っております。どうぞお付き合いください。

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