スティーヴン・ミルハウザー 「エドウィン・マルハウス ー あるアメリカ作家の生と死」

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 今回はある種偏執的と言える作家、スティーヴン・ミルハウザー「エドウィン・マルハウス ー あるアメリカ作家の生と死」をご紹介しようと思います。この作家さんは非常に特殊な文体の方なのですが、それはさておいて、まずはあらすじからご紹介いたしましょう。

 

 

 エドウィン・マルハウス。彼は11歳の若さでアメリカ文学を代表する傑作「まんが」を執筆し、直後、夭折した。隣人であり、同級生であるジェフリー・カートライトは、早くからエドウィンの才能を見抜き、来たるべき時のため、彼の一挙手一投足を記憶していた。これはジェフリー・カートライトによる、アメリカ文学者エドウィン・マルハウスの誕生から「まんが」執筆の過程、そして血塗られた死までの全記録、すなわち「伝記」なのである。

 

 

 …つまり、11歳の少年がアメリカ文学史上に残る傑作小説を書き、その一部始終を、やはり11歳の少年が伝記として記した、というのが本作の内容なのです。

 とはいえ、もちろんこれは「伝記の形を借りた小説」でありまして、エドウィンの一生を通じて、誰もが経験する「子供時代」を克明に、時に残酷なまでに描いた作品なのです。

 

 さて、「子供時代」という単語を出しますと、多くの方は「ジュブナイル小説」を思い浮かべると思います。一般的には少年少女達の冒険などを取り上げた作品を指し、古くは「トム・ソーヤーの冒険」や「海底2万里」、日本では「ズッコケ三人組」などがあたり、現在はライトノベルなどがこれにあたるのかもしれません。

 これらジュブナイル小説は奇想天外な設定、あるいは個性豊かなキャラクター群が活躍するものですが、本作はそういう毛色の物ではありません。何故なら本作はあくまでも「伝記」であり、エドウィンという少年は文学作品「まんが」を執筆した以外は、全く平凡な人物だからです。

 つまり本作はエドウィンが過ごしたごく平凡な日常を、徹底的に描写しているだけなのです。しかしこの点にこそ、本作の価値があります。それでは具体的な内容をご紹介しましょう。

 

 本作は筆者であるジェフリーの視点で描かれていますが、物語、というか伝記はジェフリーが初めてエドウィンと出会った時、すなわちジェフリーが生後6ヵ月と3日の時に始まります。驚くべきことですが、ジェフリー曰く「自分は並外れた記憶力を持っている」ため、この時の出会いはもちろん、その後のエドウィンの生涯を全て記憶しているのです。

 エドウィンが生まれて間もない頃、喃語(幼児の単語以前の言葉、『うまうま』や『あーうー』など)を口にしだした頃、やがて正しい言葉を話し、小学校に入学し、学校生活を営む様子、そしてエドウィンが「まんが」執筆に格闘する様子や、完成した「まんが」の内容と詳細な解説が続き、エドウィンの最期までが記されるのです。

 

 これだけなら単なる「成長記録」と言えるでしょう。しかし本作はあまりにも克明なのです。それは本作の(本当の)筆者であるミルハウザーの作風が関係しています。すなわち「状況描写が異常なまでに細かい」ということです。

 例えばエドウィンが喃語を話し始めた頃のくだりでは、エドウィンが「どのような喃語を話したのか」が延々と羅列されています。またエドウィンの両親が歌って聞かせた童謡や、エドウィンが好んだカートゥーン・アニメの内容、果てはエドウィンが小学校で受けたテストの内容まで記されています。

 加えてエドウィンとジェフリーの他愛のない会話も非常に細かく描写されています。普通の小説でも会話場面はある程度は細かく描写されますが、しかし本作の場合、一言一句はもちろん、2人の身振り手振り、ジェフリーの心象、そして周りの風景までもが恐ろしく細かく記され、おそらく3分程度の会話であろう内容に、3000文字強(文庫本で4ページほど)が費やされているのです。

 

 実は本作がミルハウザーの処女作なのですが、その後もこのような「詳細な記述」を作風としています。超巨大ホテルの隆盛と没落を描いた「マーティン・ドレスラーの夢」、展示品が延々と増え続けていく「バーナム博物館」、精緻な手書きアニメーションを作る男「J・フランクリン・ペインの小さな王国」など、どの作品も非常に細かい描写が積み重ねられています。

 しかし、ともすればこのような表現は「くどい」と感じられてしまう恐れがあります。しかしこのミルハウザーの作風は彼の取り扱う題材に非常に適していると言えます。先に挙げた作品は、実はどれも「偏執的」と言えます。増築に増築を重ねるホテル、膨大な展示品が所蔵された美術館、滑らかな動きを追及するため、作画枚数が増え続けるアニメーション…。

 これらがどれほど偏執的なのかを描くには、これらがどれだけ膨大なのか、あるいはどれだけ詳細なのかを描くのが最も効果的と言えます。つまりミルハウザーの作風である「詳細な記述」が最も適していると言えるのです。

 事実、ミルハウザーが用意する舞台、人物、小道具は事細かに描写され、そのため読み手は膨大な量の情報にまさに「押しつぶされ」、作品世界に飲み込まれます。つまり主人公の持つ偏執性を目の当たりにし、圧倒されるのです。これがミルハウザーの作品の魅力であり、真骨頂であります。

 

 本作でもこの作風は健在、というか処女作ですから確立されており、エドウィンの子供時代が事細かに描かれています。したがって、読み手はエドウィンの子供時代に飲み込まれるのです。すなわち、1940年代のアメリカの片田舎の日常、それも子供たちの日常を追体験することになります。

 家庭内でのやりとり、街の風景、学校での様子、登下校の道々、当時の風俗など、舞台はアメリカですが、日本人の一般的な子供時代として読みかえても全く違和感がありません。私の世代では大抵、学校の近くには雑貨屋や駄菓子屋があり、学校帰りにはそこに寄って、よく分からないお菓子やよく分からないおもちゃを買って楽しんだものですが、実際、本作にもエドウィン達が学校近くの雑貨屋でたむろする描写が「事細かに」あります。案外、子供時代の風景とは、万国共通なのかもしれません

 加えて、自立心、自尊心、尊敬、嫉妬、そして恋といった、成長過程における心の変遷も、まさに恥部を抉られるように描写されています。そうです、ここに描かれている子供時代とは、まさに読み手である私達の子供時代そのものと言えるのです。

 ですから本作の読み手は例外なく、本作の中に自分自身を見つけることでしょう。エドウィンの行動や、エドウィンの同級生の誰かに共感を、あるいは「こんなヤツ、いたなぁ」と思いを馳せることになるでしょう。この作品の価値とは、全ての人間の子供時代が詰め込まれている、という点なのです。

 

 しかしながら、本作の魅力はそれだけではありません。先述いたしましたように、ミルハウザーの作品の主人公は、ほぼ全員が偏執的な性格を持っており、その異常とも言える情熱を作品に傾け、やがて社会から取り残される運命にあります。

 では本作の主人公、エドウィンはどうでしょう。確かに彼は11歳にしてアメリカ文学の傑作とも言える「まんが」を執筆しましたが、その制作過程は、精神的に消耗はしましたが、しかし他のミルハウザーの作品の主人公のような強い偏執性は持っていませんでした。ともすれば成長して作家となったなら、その偏執性が顔を出したかもしれませんが、彼は「まんが」1作品だけを残し、夭折してしまいました。

 …もうお分かりでしょう。本作の本当の主人公は誰なのか。実際、本作はエドウィンの一生を詳細に記述したものですが、所々「彼」の独白も混じり、しかもそれらはことごとく「自分がいかに優れているか」を声高に宣言しているのです。この点は、本作の最終盤で顕著になり、最後の1ページで頂点に達し、グロテスクなまでに偏執性がにじみ出ます。この時、読み手はこの伝記の本当の「意味」を考えざるを得なくなるのです。

 

 

 ということで、是非皆様にも一読していただきたいのですが、何しろミルハウザーは先述のような作風で、その上本作は処女作のために文章が今ひとつ整理されていません。つまり最初は非常に読みにくく、とっつきにくいのです。それでもミルハウザーの文体に慣れてくれば、これほど濃密な作品はないと思います。とはいえ、私もこの本を買ったのは5年ほど前で、先日やっと読み終わったんですがね。

 

 

 現在は文庫版が出ているようです。興味を持たれましたら、是非手に取っていただきたいと思います。


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todome

過去のホームページ時代より寄稿させていただいておりましたが、とある作品を完結させぬままに十数年すっかり忘れ、この度親方の号令により、再び参加と相成りました、todomeと申します。 主に小話を寄稿させておりますが、マンガ、ゲームにつきましても、今後ご紹介させていただこうかと思っております。どうぞお付き合いください。

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